爺さんの噂《うわさ》をしたら父は少し考えて、待てよ、其は昔関寛斎と云った男じゃないかしらん、長崎で脚疾の治療をしてもらったことがある、中々きかぬ気の男で、松本良順など手古摺《てこず》って居た、と云った。爺さんに聞いたら、果して其は事実であった。其後爺さんは湘南漫遊の砌《みぎり》老父が許《もと》に立寄って、八十八の旧患者は八十一の旧医師と互に白鬚を撫して五十年前崎陽の昔を語ると云う一幕があった。所謂縁は異なものである。
北海道も直ぐ開けて了う、無人境が無くならぬ内遊びに来い遊びに来いと、爺さん頻りに促《うなが》す。彼も一度は爺さんの生活ぶりを見たいと思いながら、何や角と延ばして居る内に、到頭爺さんの住む山中まで汽車が開通して了った。そこで彼は妻、女を連れてあたふた武蔵野から北海道へと遊びに出かけた。
左に掲《かか》ぐるは、訪問記の数節である。
二
「北海道十勝の池田駅で乗換えた汽車は、秋雨寂しい利別川《としべつがわ》の谷を北へ北へまた北へ北へと駛《はし》って、夕の四時|※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−289−15]別《りくんべつ》駅に着いた。明治四十三年九月二十四日、網走《あばしり》線が※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−289−15]別まで開通した開通式の翌々日である。
今にはじめぬ鉄道の幻術《げんじゅつ》、此正月まで草葺の小屋一軒しかなかったと聞く※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−290−1]別に、最早《もう》人家が百戸近く、旅館の三軒料理屋が大小五軒も出来て居る。開通即下のごったかえす※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−290−2]別館の片隅で、祝《いわい》の赤飯で夕飯を済まし、人夫の一人に当年五歳の女児鶴、一人に荷物を負ってもらい、余等夫婦洋傘を翳《さ》してあとにつき、斗満《とまむ》の関牧場さして出かける。
新開町《しんかいまち》の雑沓を後にして、道は直ぐ西に蒼《あお》い黄昏《たそがれ》の煙《けむり》に入った。やがて橋を渡る。※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻−290−5]別橋である。開通を当に入り込んだ人間が多く仕事が無くて困ると云う人夫の話《はなし》を聞きながら、滑りがちな爪先上りの路を、懐中電燈の光に照らして行く。雨は止《や》んで、日はとっぷり暮れた。不図耳に入るものがある。颯々《さあさあ》――颯々と云う音。はっとして余は耳を立てた。松風《まつかぜ》か。否《いや》、松風でない。峰の嵐でもない。水声《すいせい》である。余は耳を澄ました。何と云う爽《さわやか》な音か。此世の声で無い。確に別天地から通《かよ》うて来る、聴くまゝに耳澄み心澄み魂も牽き入れらるゝ様ななつかしい音《ね》である。人夫にきくと、果して斗満川《とまむがわ》であった。やがて道は山側《やまばた》をめぐってだら/\下りになった。水声の方からぱっと火光《あかり》がさす。よく見れば右側山の手に家がある。道の左側にも家がある。人の話声《はなしごえ》がして止んだ。此だな、と思って音なわすと、道側の矮《ひく》い草葺の中から真黒な姿がぬっと出て「東京のお客さんじゃありませんか。御隠居が毎日御待兼ねです」と云って、先に立って案内する。水声に架《か》す橋を渡って、長方形の可なり大きな建物に来た。導かるゝまゝにドヤ/\戸口から入ると、眩《まぶ》しい洋燈《らんぷ》の光に初見の顔が三つ四つ。やがて奥から咳払《せきばら》いと共に爺さんが出て来た。
「おゝ鶴坊来たかい。よく来た。よく来た」
*
九月二十五日。雨。
爺さんでは長過ぎる。不躾《ぶしつけ》でもある。あらためて翁と呼ぶ。翁が今住んで居る家は、明治三十九年に出来た官設の駅逓《えきてい》で、四十坪程の質素な木造。立派ではないが建て離《はな》しの納屋、浴室、窖室《あなぐら》もあり、裏に鶏を飼い、水も掘井戸《ほりいど》、山から引いたのと二通りもあって、贅沢《ぜいたく》はないが不自由もない住居だ。翁は此処に三男余作君、牧場創業以来の老功《ろうこう》片山八重蔵君夫婦、片山夫人の弟にして在郷軍人たる田辺新之助君、及び其病妹と共に住んで居る。此処は十勝で、つい川向うが釧路、創業当時の草舎も其の川向《かわむかい》にあって、今四男又一君が住んで居る。駅逓の前は直ぐ北見街道、其向うは草叢《くさむら》を拓《ひら》いて牛馬舎一棟、人の住む矮《ひく》い草舎《くさや》が一棟。道側に大きなヤチダモが一樹黄葉して秋雨《あきさめ》を滴《た》らして居る。
駅逓東南隅の八畳が翁の居間である。硝子窓《がらすまど》から形ばかり埒《らち》を結った自然のまゝの小庭《こにわ》や甘藍畑を見越して、黄葉のウエンシリ山をつい鼻のさき見る。小机一つ火の気の少ない箱火鉢一つ。床には小杉《こすぎ》榲邨《おんそん》の「淡きもの味はへよとの親こゝろ共にしのびて昔かたらふ」と書いた幅を掛けてある。翁は今日も余等が寝て居る内に、山から引いた氷の様な水を浴び、香を焼《た》いて神明に祈り、机の前に端座《たんざ》して老子を読んだのである。老子は翁の心読書、其についでは創世記、詩篇、約百記《ヨブき》なぞも愛読書目の中にある。アブラハム、ヤコブなぞ遊牧族《ゆうぼくぞく》の老酋長の物語は、十勝の山中に牛馬と住む己《わ》が境涯に引くらべて、殊に興味が深いのであろう。
落《おち》つけよとの雨が終日降りくらす。翁の室と板廊下一つ隔てた街道側の八畳にくつろいで居ると、翁は菓子、野葡萄、玉蜀黍、何くれと持て来ては鶴子にも余等にも与え、小さな炉を中に、黒い毛繻子の前掛の膝をきちんと座って、さま/″\の話をする。昔からタヾの医者でなかった翁の所謂灌水は単に身体の冷水浴をのみ意味せぬ如く、治術も頗活機に富んだもので、薬でなくてはならぬときめこんだ衆生の為に、徳島に居た頃は不及飲《ふぎゅういん》と云う水薬を調合し、今も待効丸と云う丸薬を与えるが、其れが不思議によく利《き》くそうだ。然し翁の医術はゴマカシではない。此を見てくれとさし出す翁の右手をよく見れば、第三指の尖《さき》が左の方に向って鉤形《かぎなり》に曲って居る。打診《だしん》に精神がこもる証拠だ。乃公《わし》の打診は何処をたゝいても患者の心臓《しんぞう》にピーンと響く、と云うのが翁の自慢である。やがて翁は箱の様なものを抱《かか》えて来た。関家の定紋九曜を刳《く》りぬいた白木の龕《がん》で、あなたが死ぬ時一処に牧場《ぼくじょう》に埋めて牛馬の食う草木を肥やしてくれと遺言した老夫人の白骨は、此中に在るのだ。翁も夫人には一目置いて、婆は自分よりエラかったと口癖の様に云う。それから五郎君の噂が出る。五郎君は翁の末子である。明治三十九年の末から四十年の始にかけ、余は黒潮《こくちょう》と云う手紙代りの小さな雑誌を出したが、其内田舎住居をはじめたので、三号迄も行かぬ二号雑誌に終った。あとを催促の手紙が来た中に、北海道|足寄《あしょろ》郵便局の関五郎と云う人もあって、手紙に添えて黒豆なぞ送って来た。通り一遍の礼状を出したきり、関とも五郎とも忘れて居ると、翌年関又一と云う人から五郎君死去の報が来た。形式的に弔詞は出したが、何れの名も余には遠いものであった。処があとで関翁の話を聞けば、思いきや五郎君は翁の末子で、翁が武蔵野の茅舎《ぼうしゃ》を訪われたのも、実は五郎君の勧《すすめ》であった。要するに余等は五郎君の霊に引張られて今此処に来て翁と対座して居るのである。
翁は一冊の稿本を取り出して来て示される。題して関牧場創業記事と云う。披《ひら》いて見ると色々面白い事がある。牧場も創業以来已に十年、汽車も開通して、万事がこゝに第二期に入らんとして居る。既往を思えば翁も一夢の感があろう。翁はまた此様なものを作ったと云って見せる。場内の農家に頒《わか》つ刷物《すりもの》である。
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日々の心得の事
一 一家|和合《なかよく》して先祖を祭り老人《としより》を敬うべし
一 朝は早く起き家業に就き夜は早く寝《ね》につくべし
一 諸上納《しょじょうのう》は早く納むべし
一 金銭取引の勘定《かんじょう》は時々致すべし
一 他人と寄合《よりあい》の時或は時間《とき》の定ある時は必ず守るべし
一 何事にても約束ある上は必ず実行すべし
一 偽言《うそ》は一切いうべからず
一 火の要心を怠るべからず
一 掃除《そうじ》に成丈注意すべし
一 流し元と掃溜《はきだめ》とは気をつけて衛生に害なきよう且|肥料《こやし》にすべき事
一 家具の傷みと障子の切張とに心付くべし
一 喰物《くいもの》はむだにならぬ様に心を用い別して味噌と漬物とは用いたる跡にも猶心を用うべし
一 他人より物をもらいたる時は返礼を忘るべからず
一 買物は前以て価《ねだん》を聞き現金たるべし一厘にてもむだにならぬ様にすべし
一 総て身分より内輪に諸事に心懸くべし人を見さげぬ様に心懸くべし
一 常着《つねぎ》は木綿筒袖たるべし
一 種物は成るべく精撰して取るべし
一 農具は錆《さび》ぬ様に心懸くべし
一 貯金は少しずつにても怠るべからず
一 一ヶ年の収入に応じて暮方を立つべし
一 一家の経済は家族一同に能く知らせ置くべし
一 他人《ひと》の子をも我子にくらべて愛すべし
一 他人より諸品《しなもの》を借りたる時は早く返すことに心がくべし
一 場内の農家は互に諸事を最も親しくすべし
一 平生自己の行に心を尽すべし且世上に対すべし
明治四十三年
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翁はもと/\我利《がり》から広大の牧場地を願下げたと思わるゝを心《しん》から嫌って、目下場内の農家がまだ三四戸に過ぎぬのをいたく慙じ、各十町を所有する中等自作農をせめて百戸は場内に入るべく切望して居る。
午後アイヌが来たと呼ばれるので、台所に出て見る。アツシを着た四十左右の眼の鋭い黒髯《こくぜん》蓬々たる男が腰かけて居る。名はヱンデコ、翁の施療《せりょう》を受けに利別《としべつ》から来た患者の一人だ。此馬鹿野郎、何故《なぜ》もっと早く来ぬかと翁が叱る。アイヌはキマリ悪るそうに笑って居る。着物をぬいで御客様に毛だらけの膚《はだ》を見せろ、と翁が云う。体《からだ》が臭《くさ》いからとモジ/\するのを無理やりに帯解かせる。上半身が露《あら》われた。正に熊だ。腹毛《はらげ》胸毛《むなげ》はものかは、背の真中まで二寸ばかりの真黒な熊毛がもじゃ/\渦《うず》まいて居る。余も人並はずれて毛深い方だが、此アイヌに比べては、中々足下にも寄れぬ。熟々《つくづく》感嘆して見惚《みと》れる。翁は丁寧に診察を終って、白や紫沢山の薬瓶《やくびん》が並んだ次の間に調剤《ちょうざい》に入った。
河西支庁の測量技手が人夫を連れて宿泊に来たので、余等は翁の隣室の六畳に移る。不図硝子窓から見ると、庭の楢の切株に綺麗《きれい》な縞栗鼠《しまりす》が来て悠々と遊んで居る。開けたと云っても、まだ/\山の中だ。
四時過ぎになると、翁の部屋で謡がはじまった。「今を初の旅衣――」ポンと鼓が鳴る。高砂だ。謡も鼓もあまり上手とも思われぬが、毎日午後の四時に粥《かゆ》二椀を食って、然る後高砂一番を謡い、日が暮るゝと灌水《かんすい》して床に入るのが、翁の常例だそうな。
夕飯から余等も台所の板敷で食わしてもらう。食後台所の大きな暖炉を囲んで、余作君片山君夫婦と話す。余作君は父翁の業を嗣いで医者となり、日露戦後|哈爾賓《ハルピン》で開業して居たが、此頃は牧場分担の為め呼ばれて父翁の許に帰って居る。片山君は紀州の人、もと北海道鉄道に奉職し、後関家に入って牧場の創業に当り、約十年斗満の山中に努力して、まだ東京の電車も知らぬと笑って居る。夫妻に子供が無い。少し痘痕《あばた》ある鳳眼にして長面の片山君は、銭函《ぜにばこ》の海岸で崖崩れの為死んだ愛犬の皮を胴着にしたのを被て、手細工らしい小箱から煙草をつまみ出しては長い煙管でふかしつゝ、悠然とストーブの側に胡踞《あぐら》かき、関翁が
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