ります。
今日も雪模様ですから、午後から降るかもわかりません。
書きたい事は山々御座いますが、また次の便りの時にいたします。
乱筆を御許し下さいませ。日本語を此の頃は話しませんし、只葛城と日本語で話すものですから、乱暴な語ばかり習いまして、いつも余り無礼の語をつかって驚く事が御座います。
何卒《どうぞ》乱筆乱文御許し下さいませ。
先は御無沙汰御詫びかた/″\御機嫌御伺いまで。
一月廿日[#地から3字上げ]岩倉けい
御なつかしき
御姉上様
御まえに
[#ここで字下げ終わり]
此れがお馨さんの粕谷に寄せた最後の心の波であった。此手紙を書いて十一日目に、彼女は其最後の戦場なる米国ブルックリン病院看護婦学校の病室に二十四年の生涯を終えたのである。
お馨さんは死んだ。
新生涯の新夫婦、メェフラワァを目送するピュリタンの若い男女の一対《いっつい》の其一人は欠《か》けた。残る一人は如何《いかが》であろう?
[#ここから2字下げ]
一月卅一日午後七時半、最愛の我が馨子高貴なる人生の戦に戦い死す。忠信なりし彼の女は、死に至る迄忠信なりき。病は敗血症と腸炎《ちょうえん》の併発、事極めて意外、病勢は急転直下、僅かに二十時間にして彼女は去る。
盛大なりし葬式(ユニオン神学校に於ける)は、彼女と予とを永《とこ》しえに結ばん為めの結婚の式なりき。多く言わず、唯察し玉え。
二月三日[#地から3字上げ]勝郎
*
「日蓮は泣かねど、涙隙無し」と。涙隙無きに止まらず、声を挙げて泣ける事も幾たびぞ。怨み、嘆き、悲しみ、悔い、悩み、如何にして此《この》幽闇《ゆうあん》の力破らんと、空しくあたり見廻わせるも幾度び。……幾度我れ死せば此の苦しみあらざりしものをと思い候。
されど若し弟《てい》先んぜば、馨子の悲痛は弟にも勝《まさ》りて激しかりしならんか。弟をして此の憂闇《ゆうあん》の力を破り得しむるものは、唯一つ馨子生きて之れが為に戦い、死に及んで止まざりし我等の理想也。彼女の短かき生涯は、その一切の瑕瑾《かきん》と不完全を以てして、遂に人生最高の理想を追い、之れが為めに戦い、戦い半ばならずして斃《たお》れし英雄の生涯也。遂に蜉蝣《ふゆう》の如き人生は、生きて甲斐なけん。昔者《むかし》プラトー、ソクラテスの口をして曰わしめて曰く、“It is not mere life, but a good life that we court”と。仮令《たとい》馨子凱歌の中に光栄の桂冠《けいかん》戴《いただ》くを得ざりしにせよ、彼女の生はその畢生《ひっせい》の高貴なる焔《ほのお》のあらん限を尽して戦い、戦の途上戦い死せる光栄ある戦死者の生也。此の事、弟をして敬虔《けいけん》馨子の死の前にぬかずき、無限のインスピレーションを茲《ここ》に汲《く》ましむ。
二月十八日[#地から3字上げ]勝郎
九
五月の初、お馨さんが髪と骨になって日本に帰って来た。お馨さんのカタミを連れ帰ったのは、日本に帰化した米国の女《おんな》宣教師《せんきょうし》で、彼女は横須賀に永住して海軍々人の間に伝道し、葛城も久しく世話になって「母《マザー》」と呼んで居た人で、お馨さんの病死の時は折よく紐育《ニューヨーク》に居合わせ、始終万事の世話をしたのであった。
五月の四日、粕谷草堂の夫妻は鶴子を連れて、お馨さんの郷里《きょうり》に於ける葬式に列《つら》なるべく出かけた。両国の停車場で、彼等は古びた中折帽を阿弥陀《あみだ》にかぶった、咽喉《のど》に汚《よご》れた絹ハンカチを巻いた、金歯の光って眼の鋭《するど》い、癇癪持《かんしゃくもち》らしい顔をした外川先生と、強情《ごうじょう》できかぬ気らしい、日本人の彼等よりも却てヨリ好き日本語をつかうF女史に会《あ》った。
いつもの停車場で下りて、一同は車をつらねて彼《かの》丘《おか》の上の別荘に往って憩《いこ》い、それから本宅に往った。お馨さんの父者人、母者人と三度目の対面をした。十二畳|二間《ふたま》を打ぬいて、正面の床に遺髪と骨を納めた箱を安置し、昨日から来て葛城の姉さんが亡き義妹の為に作った花環《はなわ》をかざり、また藤なぞ生けてあった。お馨さんは自身の写真と云う写真を残らず破り棄てたそうで、目に見るべき其姿は残って居なかった。然しお馨さんによく肖《に》た妹達が五人まで居て、其幼な立から二十歳前後を眼の前に見る様であった。外川先生が司会し、お馨さんの学友がオルガンを弾いて、一同讃美歌の「やゝにうつり行く夕日かげの、残るわがいのち、いまか消ゆらん。御使《みつかい》よ、つばさをのべ、とこしえのふるさとに、つれゆきてよ、……」と云うのを歌うた。
粕谷の彼は起《た》ってお馨さんと彼等の干繋《かんけい》を簡単に述べ、父者人に対して卑怯なる虚言の罪を謝し、終に臨み、お馨さんの早世《そうせい》はまことに残念だが、自身の妹か娘があるならば、十人は十人矢張お馨さんの様に戦場に送りたいと思うと言った。
次ぎにF女史が立って、お馨さんの臨終前後の事を述べた。お馨さんは、ブルックリン病院の生徒となって以来、忠実に職分を尽して、校長はじめ先輩、同僚、患者、すべての人の信愛を贏《か》ち得た。発病以来苦痛も中々あったであろうが、一言も不平《ふへい》憂悶《ゆうもん》の語なく、何をしてもらっても「有難《ありがと》う/\」と心から感謝し、信仰と感謝を以て此世を去った。真に見上げた臨終で、校長はじめ一人として其美しい勇ましい臨終に感激せぬ者は無かった。F女史は斯く事細かに語り来って「私も斯様に米国から御国《おくに》に伝道に参って居りますが、馨子さんの働きを見れば、其働きの間は実に暫《しばらく》の間でございましたが、私は恥入る様に思います。馨子さんは実にやさしい方で、其上男も及ばぬ凜々《りり》しい魂《たましい》を持ってお出でした。春の初に咲く梅の花の様な方でした」と云うた。
言下《ごんか》に、粕谷の彼は、彼の園内の梅の下に立ち白い花を折って黒髪に插《さ》すお馨さんの姿をまざまざと眼の前に見た。本当に彼女は人になった梅の花であった。だから其花を折って簪《かんざし》にしたのだ。彼女にして初めて梅の花を簪にすることが出来る。彼は重ねて思うた。米国からF女史が帰化《きか》して、日本に伝道に来る。日本からお馨さんが米国に往って米国の人達に敬愛されて死ぬる。斯うして日米の間は自然に繋《つな》がれる。お馨さんは常に日米感情の齟齬《そご》を憂えて居る女であった。日米の親和を熱心に祈って居た女であった。其祈は聴かれて、彼女は米国に死んだ。米国の灰《はい》になり米国の土になった彼女は、真《しん》に日本が米国に遣《つか》わした無位無官の本当の平和の使者《つかい》の一人であったと。蓋《けだし》「宝《たから》の在る所心もまた在る」道理で、お馨さんを愛する程の人は、お馨さんの死んだ米国を懐《おも》わずには居られないのである。
最後に外川先生が師弟の関係を述べ、「彼女は強い女であったが、体《からだ》は強健だし、貧乏はしないし、思いやりと云うものが或は欠《か》ける恐れがあった。だから自分は米国渡航を賛成したのであった。自分は考えた、彼女が二三年も米国に揉《も》まれると、実にエライ女になって来る。然るに今Fさんの言を聞けば、彼女は短かい期間であったが立派に其人格を完成することが出来た。だから死んだのである」と云うた。
外川先生の祈祷《きとう》で式は終えた。一同記念の撮影をして、それから遺髪と遺骨を岩倉家の菩提寺《ぼだいじ》の妙楽寺に送った。寺は小山の中腹にある。本堂の背後《うしろ》、一段高い墓地の大きな海棠《かいどう》の下に、
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岩倉馨子之墓
[#ここで字下げ終わり]
と云う小さな墓標《ぼひょう》が立てられた。
*
葛城は其後間もなく独逸に渡った。
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千九百十年 六月十八日
ニューヨーク
本日午後三時当地出帆。
三年苦戦健闘のアメリカを去らんとして感慨強し。闘争は一個微弱なる一少年を化して、兎も角も男を作り候。
馨子を煙とせし北米の空、ふり仰いで涙煙の如く胸を襲《おそ》う。
[#地から3字上げ]勝郎
十
生きて居る者は、苦まねばならぬ。死んだお馨さんは、霊になって猶働きつゝあるのだ。
「お馨さんの梅」は、木の生くる限り春毎に咲くであろう。短く此生に生きたお馨さんは、永久に霊に活きて働くであろう。
[#改ページ]
関寛翁
一
明治四十一年四月二日の昼過ぎ、妙な爺《じい》さんが訪《たず》ねて来た。北海道の山中に牛馬を飼って居る関と云う爺《じじい》と名のる。鼠の眼の様に小さな可愛い眼をして、十四五の少年の様に紅味ばしった顔をして居る。長い灰色の髪を後に撫でつけ、顋《あご》に些《ちと》の疎髯《そぜん》をヒラ/\させ、木綿ずくめの着物に、足駄ばき。年を問えば七十九。強健な老人振りに、主人は先ず我《が》を折った。
兎も角も上に請《しょう》じ、問わるゝまゝにトルストイの消息など話す。爺さんは五十年来実行して居る冷水浴の話、元来医者で今もアイヌや移住民に施療して居る話、数年前物故した婆さんの話なぞして、自分は婆の手織物ほか着たことはない、此も婆の手織だと云って、ごり/\した無地の木綿羽織の袖を引張って見せた。面白い爺さんだと思うた。
其後「命の洗濯」「旅行日記」「目ざまし草」など追々爺さんから自著の冊子を送って来た。面白い爺さんの一癖も二癖もある正体が読めて来た。経歴の一端も分かった。爺さん姓は関名は寛、天保元年上総国に生れた。貧苦の中から志を立て、佐倉佐藤泰然の門に入って医学を修め、最初銚子に開業し、更に長崎に遊学し、後阿波蜂須賀侯に招かれて徳島藩の医となった。維新の際は、上野の戦争から奥羽戦争まで、官軍の軍医、病院長として、熱心に働いた。順に行けば、軍医総監男爵は造作《ぞうさ》もないことであったろうが、持って生れた骨が兎角邪魔をなして、上官と反《そ》りが合わず、官に頼って事を為すは駄目と見限りをつけて、阿波徳島に帰り、家禄を奉還して、開業医の生活を始めたのが、明治五年であった。爾来こゝに、孜々《しし》として仁術を続け、貧民の施療、小児の種痘なぞ、其数も夥しいものになった。家も相応に富んだ。五男二女、孫も出来、明治三十四年には翁媼《おうおん》共《とも》に健やかに目出度金婚式を祝うた。剛気の爺さんは、此まゝ楽隠居で朽果つるを嫌《きら》った。札幌農学校に居た四男を主として、北海道の山奥開墾牧場経営を企て、老夫婦は養老費の全部及び老《お》いの生命二つを其牧場に投ず可く決心した。婆さんもエラ者である。老夫婦は住み馴れた徳島をあとにして、明治三十五年北海道に移住し、老夫婦自ら鍬をとり鎌をとって働いた。二年を出でずして婆さんは亡くなる。牧場主任の四男は日露戦役に出征する。爺さん一人淋しく牛馬と留守の任に当って居たが、其後四男も帰って来たので、寒中は北海道から東京に出て来て、旧知を尋ね、新識を求め、朝に野に若手の者と談話を交換し意見を闘わすを楽の一として居る。読書、旅行と共に、若い者相手の他流試合は、爺さんの道楽である。旅行をするには、風呂敷包一つ。人を訪うには、初対面の者にも紹介状なぞ持っては往かぬ。先日の来訪も、型《かた》の如く突然たるものであった。
爺さんが北海道に帰ってからよこした第一の手紙は、十三行の罫紙《けいし》に蠅頭《じょうとう》の細字で認めた長文の手紙で、農とも読書子ともつかぬ中途半端《ちゅうとはんぱ》な彼の生活を手強く攻撃したものであった。爺さんは年々雁の如く秋は東京に来て春は北に帰った。上京毎にわざ/\来訪して、追々懇意の間柄となった。手ずから採った干薇《ほしわらび》、萩のステッキ、鶉豆《うずらまめ》なぞ、来る毎に持て来てくれた。或時彼は湘南《しょうなん》の老父に此
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