に無暗《むやみ》に樹木を植え込んだ園内を歩いて、若木《わかき》の梅の下に立った。成程咲いた、咲いた。青軸《あおじく》また緑萼《りょくがく》と呼ばるゝ種類の梅で、花はまだ三四輪、染めた様に緑な萼《がく》から白く膨《ふく》らみ出た蕾《つぼみ》の幾箇を添えて、春まだ浅い此の二月の寒を物ともせず、ぱっちりと咲いて居る。極《きょく》の雪の様にいさゝか青味を帯びた純白の葩《はなびら》、芳烈《ほうれつ》な其香。今更の様だが、梅は凜々《りり》しい気もちの好い花だ。
白っぽい竪縞《たてじま》の銘仙の羽織、紫紺《しこん》のカシミヤの袴、足駄を穿《は》いた娘が曾て此梅の下に立って、一輪の花を摘んで黒い庇髪《ひさし》の鬢《びん》に插した。お馨さん――其娘の名――は其年の夏亜米利加に渡って、翌年まだ此梅が咲かぬ内に米国で亡くなった。
其れ以来、彼等は此梅を「お馨さんの梅」と呼ぶのである。
二
米国の画家ヂャルヂ、ヘンリー、バウトン[#「ヂャルヂ、ヘンリー、バウトン」に傍線]の描《か》いた「メェフラワァの帰り」と云う画がある。メェフラワァは、約三百年前、信仰、生活の自由を享《う》けん為に、欧洲からはる/″\大西洋を越えて、亜米利加の新大陸に渡った清教徒の一群《いちぐん》ピルグリム、ファザァスが乗った小さな帆前船《ほまえせん》である。画は此船が任務を果してまた東へ帰り去る光景を描《えが》いた。海原の果には、最早《もう》小さく小さくなった船が、陸から吹く追手風《おいて》に帆を張って船脚《ふなあし》軽く東へ走って居る。短い草が生えて、岩石の処々に起伏した浜にはピルグリムの男女の人々が、彼処に五六人、此処に二三人、往く船を遙に見送って居る。前景《ぜんけい》に立つ若い一対《いっつい》の男女は、伝説のジョン、アルデン[#「ジョン、アルデン」に傍線]とメーリー、チルトン[#「メーリー、チルトン」に傍線]ででもあろうか。二人共まだ二十代の立派な若い同士。男は白い幅濶《はばひろ》の襟をつけた服を着て、ステッキをついた左の手に鍔広《つばひろ》のピュリタン帽を持つ右の手を重ね、女は雪白《せっぱく》のエプロンをかけて、半頭巾《ボンネット》を冠り、右の手は男の腕に縋《すが》り、半巾《はんかち》を持った左の手をわが胸に当てゝ居る。二人の眼はじっと遠ざかり行くメェフラワァ号の最後の影に注《そそ》がれて居る。メェフラワァは故国との最後の連鎖《れんさ》である。メェフラワァの去ると共に故国の縁《えん》は切れるのである。なつかしい過去、旧世界、故国、歴史、一切の記念、其等との連鎖は、彼《かの》船脚《ふなあし》の一歩※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]に切れて行くのである。彼等の胸は痛み、眼には涙が宿って居るに違いない。然しながら彼等は若い。彼等は新しい大陸に足を立てゝ居る。彼等の過去は、彼船と共に夢と消ゆる共、彼等の現在は荒寥《こうりょう》であるとも、彼等は洋々《ようよう》たる未来を代表して居る。彼等は新世界のアダム、イヴである。
此の画を見る毎《たび》に、彼はお馨《けい》さんと其恋人|葛城《かつらぎ》勝郎《かつお》を憶《おも》い出さぬことは無い。
三
葛城は九州の士の家の三男に生れた。海軍機関学校に居る頃から、彼は外川先生に私淑《ししゅく》して基督を信じ、他の進級、出世、肉の快楽《けらく》にあこがるゝ同窓青年の中にありて、彼は祈祷《きとう》し、断食《だんじき》し、読書し、瞑想《めいそう》する青年であった。日露戦争に機関少尉として出陣した彼は、戦争が終ると共に海軍を見限って、哲学文学を以て身を立つる可く決心した。寡婦《かふ》として彼を育て上げた彼の母、彼の姉、彼の二兄、家族の者は皆彼が海軍を見捨つることに反対した。唯一人|満腔《まんこう》の同情を彼に寄せた人があった。其れは其頃彼の母の家に寄寓《きぐう》して居る女学生であった。女学生の名はお馨さんと云った。
お馨さんは、上総《かずさ》の九十九里の海の音が暴風《しけ》の日には遠雷の様に聞ゆる或村の小山の懐《ふところ》にある家の娘であった。四人の兄、一人の姉、五人の妹を彼女は有《も》って居た。郷里の小学を終えて、出京して三輪田女学校を卒《お》え、更に英語を学ぶべく彼女はある縁によって葛城の母の家に寄寓《きぐう》して青山女学院に通って居た。彼女も又外川先生の門弟で、日曜毎に隅の方に黙って聖書の講義を聴いて居た。富裕な家の女に生れて、彼女は社会主義に同情を有って居た。葛城が軍艦から母の家に帰って来る毎に、彼は彼女と談話《だんわ》を交えた。信仰を同じくし、師を同じくし、同じ理想を趁《お》う二人は多くの点に於て一致を見出した。彼女は若い海軍士官が軍籍を脱することについて家族総反対の中に唯一人の賛成者であった。斯くて二人は自然に相思《そうし》の中となった。二人は時に青山から玉川まで歩いて行く/\語り、玉川の磧《かわら》の人無き所に跪《ひざまず》いて、流水の音を聞きつゝ共に祈った。身は雪の如く、心は火の如く、二人の恋は美しいものであった。
四
本文の筆を執る彼は、明治三十九年の正月、逗子《ずし》の父母の家で初めて葛城に会った。恰も自家の生涯に一革命を閲《けみ》した時である。間もなく彼は上州の山に籠《こも》る。ついで露西亜に行く。外国から帰った時は、葛城は已に海軍を退いて京都の大学に居た。
明治四十年の初春、此文の筆者は東京から野に移り住んだ。八重桜も散り方になり、武蔵野の雑木林が薄緑《うすみどり》に煙る頃、葛城は渡米の暇乞《いとまごい》に来た。一夜泊って明くる日、村はずれで別れたが、中数日を置いて更に葛城を見送る可く彼は横浜に往った。港外のモンゴリヤ号は已に錨《いかり》を抜かんとして、見送りに来た葛城の姉もお馨《けい》さんもとくに去り、葛城独甲板の欄《らん》に倚《よ》って居た。時間が無いので匆々《そこそこ》に別を告げた。此時初めて葛城はお馨さんの事を云うた。ゆく/\世話になろうと思うて居ると云うた。而《そう》して今後度々上る様に云って置いたから宜しく頼む、と云うた。斯くて葛城は亜米利加に渡った。
其年夏休前にお馨さんは初めて粕谷に来た。美しいと云う顔立《かおだち》では無いが、色白の、微塵《みじん》色気も鄙気《いやしげ》も無いすっきりした娘で、服装《みなり》も質素であった。其頃は女子英学塾に寄宿して居たが、後には外川先生の家に移った。粕谷に遊びに往ったと云うてやると、米国から大層喜んでよこす、と云ってよく遊びに来た。今日は学校から玉川遠足をしますから、私は此方《こちら》へ上りました、と云って朝飯前に来た事もあった。体質極めて強健で、病気と云うものを知らぬと云って居た。新宿から三里、大抵足駄をはいて歩いた。日がえりに往復することもあった。彼女は女中も居ぬ家の不自由を知って居るので、来る時に何時も襷《たすき》を袂《たもと》に入れて来た。而して台所の事、拭掃除《ふきそうじ》、何くれとなく妻を手伝うた。家の事情、学校の不平、前途の喜憂、何も打明けて語り、慰められて帰った。妻は次第に彼女を妹の如く愛した。
葛城は新英州《ニューイングランド》の大学で神学を修めて居た。欧米大陸の波瀾万丈|沸《に》えかえる様な思潮に心魂を震蕩《しんとう》された葛城は、非常の動揺と而して苦悶《くもん》を感じ、大服従のあと大自由に向ってあこがれた。彼が故国の情人に寄する手紙は、其心中の千波万波を漲《みなぎ》らして、一回は一回より激烈なるものとなった。彼はイブセンを読む可く彼女に書き送った。彼女を頭が固《かた》いと罵ったりした。而して彼女をも同じ波瀾に捲き込むべく努めた。斯等の手紙が初心《うぶ》な彼女を震駭《しんがい》憂悶《ゆうもん》せしめた状《さま》は、傍眼《わきめ》にも気の毒であった。彼女は従順にイブセンを読んだ。ツルゲーネフも読んだ。然し彼女は葛城が堕落に向いつゝあるものと考えた。何ともして葛城を救わねばならぬと身を藻掻《もが》いた。彼女は立っても居ても居られなくなった。而して自身亜米利加に渡って葛城を救わねばならぬと覚期《かくご》した。
粕谷《かすや》の夫妻は彼女を慰めて、葛城が此等の動揺は当《まさ》に来る可き醗酵《はっこう》で、少しも懸念す可きでないと諭《さと》した。然しお馨《けい》さんの渡米には、二念なく賛同した。彼葛城の為にも、彼女自身の鍛錬《たんれん》の為にも、至極好い思立《おもいたち》と看《み》たのである。彼女は葛城の渡米当時已に自身も渡米す可く身を悶《もだ》えたが、父の反対によって是非なく思い止まったのであった。
米国からは、あまり乗気でもないが、来るなら紐育《ニューヨーク》ブルックリンの看護婦学校に口があると知らして来た。彼女の師外川先生も、自身|新英蘭《ニューイングランド》で一時|白痴院《はくちいん》の看護手をしたことがあると云うて、彼女の渡米に賛同した。お馨さんは母の愛女であった。母は愛女の為に其望を遂げさすべく骨折る事を諾《だく》した。彼女の長兄は、其母を悦ばす可く陰に陽に骨折る事を妹に約した。残る所は彼女の父の承諾だけであった。彼女の父は田舎の平相国《へいしょうこく》清盛《きよもり》として、其小帝国内に猛威を振うている。彼女と葛城の縁談《えんだん》も、中に立って色々骨折る人があったが、彼女の父は断じて許さなかった。葛城の人物よりも其無資産を慮《おもんぱか》ったのである。葛城の母、兄姉も皆お馨さんの渡米には不賛成であった。葛城の勉強の邪魔になると謂うた。静かにこゝで勉強して葛城の帰朝を待てと勧めた。然しお馨さんは如何しても思い止まることが出来なかった。それに、日本に愚図々々《ぐずぐず》して居れば、心に染《そ》まぬ結婚を父に強《し》いられる恐れがあった。
斯様な事情と彼女の切なる心情を見聞する粕谷の夫妻は、打捨てゝ置く訳に行かなかった。葛城が家族の反対に関せず、何を措いても彼女の父の結婚及渡米の許諾を獲べく、単刀直入|桶狭間《おけはざま》の本陣に斬込まねばならぬと考えた。
五
朧月《おぼろづき》の夜、葛城家の使者と偽《いつわ》る彼は、房総線《ぼうそうせん》の一駅で下りて、車に乗ってお馨さんの家に往った。長い田舎町をぬけて、田圃《たんぼ》沿いの街道を小一里も行って、田中路を小山の中に入って、其山ふところの行止《ゆきどま》りが其家であった。大きな長屋門の傍の潜《くぐ》りを入って、勝手口から名刺を出した。色の褪《さ》めた黒紋付の羽織を着た素足《すあし》の大きな六十爺さんが出て来た。お馨さんの父者人《ててじゃひと》であった。
其夜は烈しい風雨であった。十二畳の座敷に寝かされた彼は、夢を結び得なかった。明くる早々起きて雨戸をあけて見た。庭には大きな泉水を掘り、向うの小山を其まゝ庭にして、蘇鉄《そてつ》を植えたり、石段を甃《たた》んだり、石燈籠を据えたりしてある。下駄突かけて、裏の方に廻って見ると、小山の裾《すそ》を鬼の窟《いわや》の如く刳《く》りぬいた物置がある。家は茅葺《かやぶき》ながら岩畳《がんじょう》な構えで、一切の模様が岩倉《いわくら》と云う其姓にふさわしい。まだ可なり吹き降《ぶ》りの中を、お馨さんによく似《に》た十四五、十一二の少女が、片手に足駄を提《さ》げ、頭から肩掛《しょうる》をかぶり、跣足《はだし》で小学校に出かけて行く。座敷に帰って、昼の光であらためて主翁《しゅおう》と対面した。住居にふさわしい岩畳なかっぷくである。左の目が眇《すがめ》かと思うたら、其れは眼の皮がたるんでいるのであった。其れが一見人を馬鹿にした様に見える。芳野金陵の門人で、漢学の素養がある。其父なる人は、灌漑用の潴水池《ちょすいち》を設けて、四辺《あたり》に恩沢を施して居る。お馨さんの父者人は、十六にして父に死なれ、一代にして巨万の富をなした。六十爺の今日も、名ある博士の弁護士などを顧問に、万事自身で切って廻わして居る。此辺は数名の博士、数十名の学士を出し
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