、突《つ》と墓地に入った。其は提灯の火であった。黒い影が二つ立って居る。近づいて、村の甲乙であることを知った。側に墓穴が掘ってある。「誰か亡くなられたのですか」と墓守が問うた。「えゝ、小さいのが」と一人が答えた。彼等は夜陰《やいん》に墓を掘り終え、小さな棺が来るのを待って居たのである。

       六

 古家を買って建てた墓守が二つの書院は、宮の様だ、寺の様だ、と人が云う。外から眺めると、成程某院とか、某庵とか云いそうな風をして居る。墓地が近いので、ます/\寺らしい。演習《えんしゅう》に来た兵士の一人が、青山街道から望み見て、「あゝお寺が出来たな」と云った。居は気を移すで、寺の様な家に住めば、粕谷の墓守時には有髪《うはつ》の僧の気もちがせぬでも無い。
 然し此れが寺だとすれば、住持《じゅうじ》は恐ろしく悟の開けぬ、煩悩満腹、貪瞋痴《どんじんち》の三悪を立派に具足した腥坊主《なまぐさぼうず》である。彼は好んで人を喰《く》う。生きた人を喰う上に、亜剌比亜夜話にある「ゴウル」の様に墓を掘って死人《しびと》を喰う。彼は死人を喰うが大好きである。
 無論生命は共通である。生存は喰い合いである。犠牲なしでは生きては行かれぬ。犠牲には、毎《つね》に良いものがなる。耶蘇は「吾は天より降《くだ》れる活けるパンなり。吾肉は真の喰物、吾血は真の飲物」と云うたが、実際良いものゝ肉を喰い血を飲んで我等は育つのである。粕谷の墓守、睡眠山無為寺の住持も、想い来れば半生に数限りなき人を殺し、今も殺しつゝある。人を殺して、猶飽かず、其の死体まで掘り出して喰う彼は、畜生道に堕《だ》したのではあるまいか。墓守実は死人喰いの「ゴウル」なのではあるまいか。彼は曾て斯んな夢を見た。誰やら憤って切腹した。彼ではなかった様だ。無論去年の春の事だから、乃木さんでは無い。誰やら切腹すると、瞋恚《しんい》の焔とでも云うのか、剖《さ》いた腹から一団のとろ/\した紅《あか》い火の球が墨黒の空に長い/\尾を曳いて飛んで、ある所に往って鶏の嘴《くちばし》をした異形《いぎょう》の人間に化《な》った。而して彼は其処に催うされて居る宴会の席に加わった。夢見る彼は、眼を挙げてずうと其席を見渡した。手足《てあし》胴体《どうたい》は人間だが、顔は一個として人間の顔は無い。狼の頭、豹の頭、鯊《さめ》の頭、蟒蛇《うわばみ》の頭、蜥蜴《とかげ》の頭、鷲の頭、梟《ふくろ》の頭、鰐《わに》の頭、――恐ろしい物の集会である。彼は上座の方を見た。其処には五分苅頭の色蒼ざめた乞食坊主が Preside して居る。其乞食坊主が手を挙げて相図をすると、一同前なる高脚《たかあし》の盃を挙げた。而して恐ろしい声を一斉にわッと揚げた。彼は冷汗に浸《ひた》って寤《さ》めた。惟うに彼は夢に畜生道に堕ちたのである。現《うつつ》の中で生きた人を喰ったり、死んだ死骸を喰ったりばかりして居る彼が夢としては、ふさわしいものであろう。
 彼は粕谷の墓守である。彼の住居は外から見てのお寺である。如何様《どん》なお寺にも過去帳がある。彼は彼の罪亡ぼしに、其の過去帳から彼の餌になった二三|亡者《もうじゃ》の名を写して見よう。
[#改ページ]

     綱島梁川君

 明治四十年九月某の日、柄杓《ひしゃく》が井に落ちた。女中が錨を下ろして探がしたが、上らぬ。妻が代って小一時間も骨折ったが、水底深く沈んだ柄杓は中々上ろうともしない。最後に主人の彼が引受け、以前相模の海で鱚《きす》を釣った手心で、錨索《いかりなわ》をとった。偖熱心に錨を上げたり下げたりしたが、時々はコトリと手答はあっても、錨の四本の足の其何れにも柄杓はかゝらない。果ては肝癪《かんしゃく》を起して、井の底を引掻き廻すと、折角の清水を濁らすばかりで、肝腎《かんじん》の柄杓は一向上らぬ。上らぬとなるとます/\意地になって、片手は錨、片手は井筒《いづつ》の縁をつかみ、井の上に伸《の》しかゝって不可見水底の柄杓と闘《たたか》って居ると、
「郵便が参りました」
と云って、女中が一枚のはがきを持て来た。彼は舌打して錨を引上げ、其はがきを受取った。裏をかえすと黒枠《くろわく》。誰かと思えば、綱島梁川君の訃《ふ》であった。
 彼は其はがきを持ったまゝ、井戸傍《いどのはな》を去って母屋の縁に腰かけた。

           *

 程明道《ていめいどう》の句に「道通天地有形外」と云うのがある。梁川君の様な有象《うしょう》から無象に通う其「道」を不断に歩いて居る人は、過去現在未来と三生を貫通して常住して居るので、死は単に此生態から彼生態に移ったと云うに過ぎぬ。斯く思うものゝ、死は矢張|哀《かな》しい而して恐ろしい事実である。
 彼は梁川君と此生に於て唯一回相見た。其は此春の四月十六日であった。梁川君の名は久しく耳にして居た。其「見神の実験」及び病間録に収められた他の諸名篇を、彼は雑誌新人の紙上に愛読し、教えらるゝことが多かった。木下尚江君がある日粕谷に遊びに来た時、梁川君の事を話し、「一度逢って御覧なさい、あの病体に恐入った元気」と云うた。丁度四月十六日には、救世軍のブース大将歓迎会が東京座に開かるゝ筈で、彼も案内をうけて居たので、出京のついでに梁川君を訪うことにしたのであった。
 肺患者には無惨な埃《ほこり》まじりの風が散り残りの桜の花を意地わるく吹きちぎる日の午後、彼は大久保余丁町の綱島家の格子戸《こうしど》をくゞった。梁川先生発熱の虞あり、来訪諸君は長談を用捨されたく云々、と主治医の書いた張札《はりふだ》が格子戸に貼《は》ってある。食事中との事で、しばらく薄暗い一室に待たされた。「自彊不息」と主人の嘱《しょく》によって清人か鮮人かの書いた額が掛って居た。やがて案内されて、硝子戸になって居る縁側《えんがわ》伝いに奥まった一室に入った。古い段通を敷いた六畳程の部屋、下を硝子戸の本棚にして金字の書巻のギッシリ詰まった押入を背にして、蒲団の上に座って居る浅黒い人が、丁寧に頭を下げて、吸い込む様なカスレ声で初対面の挨拶をした。処女の様なつゝましさがある。たゞ其の人を見る黒い眸子《ひとみ》の澄んで凝然と動かぬ処に、意志の強い其性格が閃めく様に思われた。最初其カスレた声を聞き苦しく思い、斯人に談話を強うるの不躾《ぶしつけ》を気にして居た彼は、何時の間にかつり込まれて、悠々と話込んだ。話半に家の人が来客を報ぜられた。綱島君は名刺を見て、「あゝ丁度よい処だった。御紹介しようと思って居ました」と云う。やがて労働者の風をした人が一青年を連れて入って来た。梁川君は、西田市太郎君と云うて紹介し、「実地の経験には、西田さんに学ぶ所が多い」と附け加えた。話は種々に渉った。彼は聖書に顕れた耶蘇基督について不満と思う所は、と梁川君に問うた。例《れい》せば実《み》なき無花果を咀《のろ》った様な、と彼は言を添えた。梁川君は「僕も丁度今其事を思うて居たが、不満と云う訳ではないが、耶蘇の一特色は其イラヒドイ所謂《いわゆる》 Vehement な点にある」と答えた。話は菜食の事に移って、彼は旅順閉塞に行く或船で、最後訣別の盃を挙ぐるに、生かして持って来た鶏を料理しようとしたが、誰云い出すともなく、鶏は生かして置こうじゃァないかと、到頭其まゝにして置いた、と云う逸話を話した。梁川君は首を傾《かし》げて聴いて居たが、「面白いな」と独語した。一座の話は多端に渉ったが、要するに随感随話で、まとまった事もなかった。唯愉快に話し込んで思わず時を移し、二時間あまりにして西田君列と前後に席を立った。
 其れから其足で三崎町の東京座に往って、舞台裏《ぶたいうら》で諸君のあとから彼もブース[#「ブース」に傍線]大将の手を握るの愉快を獲た。大将は肉体も見上ぐるばかりの清げな大男で、其手は昨年の夏握ったトルストイ[#「トルストイ」に傍線]の手の様に大きく温《あたたか》であった。午後には梁川君と語り、夜はブース[#「ブース」に傍線]大将の手を握る。四月十六日は彼にとって喜ばしい一日であった。嬉しいあまりに、大将の演説終って喜捨金集めの帽が廻った時、彼は思わず乏しい財布を倒《さかさ》にして了うた。
 其後梁川君とははがきの往復をしたり、回光録を贈ってもらったりしたきり、彼も田園の生活多忙になって久しく打絶えて居た。そこで此訃は突然であった。精神的に不朽な人は、肉体も例令其れが病体であっても猶不死の様に思われてならなかったのである。梁川君が死ぬ、其様《そん》な事はあまり彼の考には入って居なかった。一枚の黒枠《くろわく》のはがきは警策の如く彼が頭上に落ちた。「死ぬぞ」と其はがきは彼の耳もとに叫んだ。

           *

 梁川君の葬式は、秋雨の瀟々《しとしと》と降る日であった。彼は高足駄をはいて、粕谷から本郷教会に往った。教会は一ぱいであった。やがて棺が舁き込まれた。草鞋ばきの西田君の姿も見えた。某嬢の独唱も、先輩及友人諸氏の履歴弔詞の朗読も、真摯なものであった。牧師が説教した。「美人の裸体《らたい》は好い、然しこれに彩衣《さいい》を被《き》せると尚美しい。梁川は永遠の真理を趣味滴る如き文章に述べた」などの語があった。梁川、梁川がやゝ耳障《みみざわ》りであった。
 彼は棺の後に跟《つ》いて雑司ヶ谷の墓地に往った。葬式が終ると、何時の間にか車にのせられて綱島家に往った。梁川君に親しい人が集って居て、晩餐の饗があった。西田君、小田君、中桐君、水谷君等面識の人もあり、識らない方も多かった。
 新宿で電車を下りた。夜が深けて居る。雨は止んだが、路は田圃《たんぼ》の様だ。彼は提灯《ちょうちん》もつけず、更らに路を択《えら》ばず、ザブ/\泥水を渉《わた》って帰った。新宿から一里半も来た頃、真闇な藪陰《やぶかげ》で真黒な人影に行合うた。彼方はずうと寄って来て、顔をすりつける様にして彼を覗《のぞ》く。彼は肝を冷やした。
「君は誰《だれ》だ?」
 先方から声をかけた。彼は住所姓名を名乗った。而して「貴君《あなた》は?」ときいた。
「刑事です。大分晩く御帰りですな」
 八幡近くまで帰って来ると、提灯ともして二三人下りて来た。彼の影を見て、提灯はとまったが、透かして見て「福富さんだよ」と驚いた様な声をして行き過ぎた。此は八幡山の人々であった。先日八幡山及粕谷の若者と烏山の若者の間に喧嘩があって、怪我人なぞ出来た。其のあとがいまだにごたごたして居るのだ。
 帰ると、一時過ぎて居た。

           *

 其後梁川君の遺文寸光録が出た。彼の名がちょい/\出て居る。彼の事を好く云うてある。総じて人は自己の影を他人に見るものだ。梁川君が彼にうつした己が影に見惚《みと》れたのも無理はない。
 梁川君が遺文の中、病中唯一度母君に対してやゝ苛※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《かれい》の言を漏らしたと云って、痛恨して居る。若し其れをだに白璧の微瑕と見るなら、其白璧の醇美は如何であろう。彼の様な汚穢な心と獣的行の者は慙死《ざんし》しなければならぬ。

           *

 梁川君の訃《ふ》に接した其日井底に落ちた柄杓は、其の年の暮|井浚《いどさら》えの時上がって来た。
 然し彼は彼の生前に於て宇宙の那辺《なへん》にか落したものがある。彼は彼の生涯を献《ささ》げて、天の上、地の下、火の中、水の中、糞土の中まで潜《もぐ》っても探し出ださねばならぬ。梁川君は端的《たんてき》に其求むるものを探し当てゝ、堂々と凱旋し去った。鈍根《どんこん》の彼はしば/\捉《とら》え得たと思うては失い、攫《つか》んだと思うては失い、今以て七転八倒の笑止な歴史を繰り返えして居る。但一切のもの実は大能掌裡の筋斗翻《とんぼがえり》に過ぎぬので人々皆通天の路あることを信ずるの一念は、彼が迷宮の流浪《さすらい》に於ける一の慰めである。
[#改ページ]

     梅一輪

       一

「お馨《けい》さんの梅が咲きましたよ」
 斯く妻が呼ぶ声に、彼は下駄を突っかけて、植木屋の庭の様
前へ 次へ
全69ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング