しあし》である。と思うので、一向構わずに置く。然し整理熱は田舎に及び、彼の村人も墓地を拡張整頓するそうで、此程|周囲《まわり》の雑木を切り倒し、共有の小杉林を拓《ひら》いてしもうた。いまに※[#「木+要」、第4水準2−15−13]《かなめ》の生牆《いけがき》を遶《めぐ》らし、桜でも植えて奇麗にすると云うて居る。惜しい事だ。

       二

 彼は墓地が好きである。東京に居た頃は、よく青山墓地へ本を読みに夢を見に往った。粕谷の墓地近くに卜居した時、墓が近くて御気味が悪うございましょうと村人が挨拶したが、彼は滅多な活人の隣より墓地を隣に持つことが寧嬉しかった。誰も胸の中に可なり沢山の墓を有って居る。眼にこそ見えね、我等は夥しい幽霊の中に住んで居る。否、我等自身が誰かの幽霊かも知れぬ。何も墓地を気味悪がるにも当らない。
 墓地は約一反余、東西に長く、背《うしろ》は雑木林、南は細い里道から一段低い畑田圃。入口は西にあって、墓は※[横線に長い縦線四本の記号、上巻−241−12]形に並んで居る。古い処で寛文元禄位。銀閣寺義政時代の宝徳のが唯一つあるが、此は今一つはりがねで結わえた二つに破れた秩父青石の板碑と共に、他所《よそ》から持って来たのである。以前小さな閻魔堂《えんまどう》があったが、乞食の焚火から焼けてしまい、今は唯石刻の奪衣婆ばかり片膝立てゝ凄い顔をして居る。頬杖《ほおづえ》をついて居る幾基の静思菩薩《せいしぼさつ》、一隅にずらりと並んだにこ/\顔の六地蔵《ろくじぞう》や、春秋の彼岸に紅いべゝを子を亡くした親が着せまつる子育《こそだて》地蔵、其等《それら》が「長十山、三国の峰の松風吹きはらふ国土にまぢる松風の音」だの、上に梵字《ぼんじ》を書いて「爰追福者為蛇虫之霊発菩提也《ここについふくするものはだちゅうのれいぼだいをはっせんがためなり》」だのと書いた古い新しいさま/″\の卒塔婆と共に、寂《さび》しい賑やかさを作って居る。植えた木には、樒《しきみ》や寒中から咲く赤椿など。百年以上の百日紅《さるすべり》があったのは、村の飲代《のみしろ》に植木屋に売られ、植木屋から粕谷の墓守に売られた。余は在来の雑木である。春はすみれ、蒲公英《たんぽぽ》が何時の間にか黙って咲いて居る。夏は白い山百合が香る。蛇が墓石の間を縫うてのたくる。秋には自然生の秋明菊《しゅうめいぎく》が咲く。冬は南向きの日暖かに風も来ぬので、隣の墓守がよくやって来ては、乾いた落葉を踏んで、其処に日なたぼこりをしながら、取りとめもない空想に耽《ふけ》る。

       三

 田舎でも人が死ぬ。彼が村の人になってから六年間に、唯二十七戸の小村で、此墓場にばかり葬式の八つもした。多くは爺さん婆さんだが、中には二八の少女も、また傷《いた》い気の子供もあった。
 ある爺さんは八十余で、死ぬる二日前まで野ら仕事をして、ぽっくり往生した。羨《うらや》ましい死に様である。ある婆さんは、八十余で、もとは大分難義もしたものだが辛抱《しんぼう》しぬいて本家分家それ/″\繁昌《はんじょう》し、孫《まご》曾孫《ひこ》大勢持って居た。ある時分家に遊びに来て帰途《かえりみち》、墓守が縁側に腰かけて、納屋大小家幾棟か有って居ることを誇ったりしたが、杖《つえ》を忘れて帰って了うた。其杖は今カタミになって、墓守が家の浴室《ゆどの》の心張棒になって居る。ある爺さんは、困った事には手が長くなる癖があった。さまで貧でもないが、よく近所のものを盗んだ。野菜物を採る。甘藷を掘る。下肥を汲む。木の苗を盗む。近所の事ではあり、病気と皆が承知して居るので、表沙汰にはならなかったが、一同《みんな》困り者にして居た。杉苗《すぎなえ》でもとられると、見附次第黙って持戻《もちもど》ったりする者もあった。此れから汁の実なぞがなくならずにようござんしょう、と葬式の時ある律義な若者が笑った。さる爺さんは、齢《とし》は其様《そん》なでもなかったが、若い時の苦労で腰が悉皆|俛《かが》んで居た。きかぬ気の爺さんで、死ぬるまで※[#「人べん+爾」、第3水準1−14−45]《おまえ》に世話はかけぬと婆さんに云い云いしたが、果して何人の介抱《かいほう》も待たず立派に一人で往生した。其以前、墓守が家の瓜畑《うりばたけ》に誰やら入込んでごそ/\やって居るので、誰かと思うたら、此爺さんが親切に瓜の心《しん》をとめてくれて居たのであった。よく楢茸《ならたけ》の初物だの何だの採《と》っては、味噌漉《みそこ》しに入れて持って来てくれた。時には親切に困ることもあった。ある時畑の畔《くろ》の草を苅ってやると云って鎌《かま》を提《さ》げて来た。其畑の畔には萱《かや》薄《すすき》が面白く穂に出て、捨て難い風致《ふうち》の径《こみち》なので其処だけわざ/\草を苅らずに置いたのであった。其れを爺さんが苅ってやると云う。頭を掻いて断わると、親切を無にすると云わんばかり爺さんむっとして帰って往ったこともある。最早《もう》楢茸が出ても、味噌漉しかゝえて、「今日は」と来る腰の曲った人は無い。

       四

 燻炭《くんたん》肥料《ひりょう》と云う事が一時はやって、芥屑《ごみくず》を燻焼《くんしょう》する為に、大きな深い穴が此処其処に掘られた。其穴の傍で子を負った十歳の女児《むすめ》と六歳になる女児が遊んで居たが、誤って二人共穴に落ちた。出ることは出たが、六になる方は大火傷《おおやけど》をした。一家残らず遠くの野らへ出たあとなので、泣き声を聞きつける者もなく、十歳になる女児《むすめ》は叱《しか》られるが恐《こわ》さに、火傷した女児を窃《そっ》と自家《うち》へ連れて往って、火傷部に襤褸《ぼろ》を被《かぶ》せて、其まゝにして置いた。医者が来た頃は、最早手後れになって居た。墓守が見舞に往って見ると、煎餅《せんべい》の袋なぞ枕頭に置いて、アアン※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]|幽《かす》かな声でうめいて居た。二三日すると、其父なる人が眼に涙を浮めて、牛乳屋が来たら最早|牛乳《ちち》は不用《いらん》と云うてくれと頼みに来た。亡くなったのである。此辺では、墓守の家か、博徒の親分か、重病人でなければ牛乳など飲む者は無い。火傷した女児は、瀕死の怪我で貴い牛乳を飲まされたのである。父なる人は神酒《みき》に酔うて、赤い顔をして頭を掉《ふ》る癖《くせ》がある人である。妙に不幸な家で、先にも五六歳の女児が行方不明で大騒《おおさわ》ぎをした後、品川堀から死骸になって上ったことがある。火傷した女児の低いうめき声と、其父の涙に霑《うる》んだ眼は、いつまでも耳に目にくっついて居る。
 牛乳と云えば、墓守の家から其家へとしばらく廻って居た配達が、最早其方へは往かなくなった。牛乳をのんで居た娘は、五月の初に亡くなったのである。墓守夫婦が村の人になった時、彼女は十一であった。体《からだ》を二ツ折にしてガックリお辞儀するしゃくんだ顔の娘を、墓守夫婦は何時となく可愛がった。九人の兄弟姉妹の真中《まんなか》で、あまり可愛がられる方ではなかった。可愛がられる其妹は、姉の事を云って、「おやすさんな叱られるクセがある」と云った。やゝ陰気な、然し情愛の深い娘だった。墓守の家に東京から女の子が遊びに来ると、「久《ひい》ちゃん」「お安さん」とよく一緒に遊んだものだ。彼女も連れて玉川に遊びに往ったら、玉川電車で帰る東京の娘を見送って「別れるのはつらい」と黯然《あんぜん》として云った。彼女は妙に不幸な子であった。ある時村の小学校の運動会で饌立《ぜんだて》競走《きょうそう》で一着になり、名を呼ばれて褒美《ほうび》を貰ったあとで、饌立の法が違って居ると女教員から苦情が出て、あらためて呼び出され、褒美を取り戻された。姉が嫁したので、小学校も高等を終えずに下り、母の手助《てだすけ》をした。間もなく彼女は肺が弱くなった。成る可く家の厄介になるまいと、医者にも見せず、熟蚕《しき》を拾ったり繭を掻いたり自身働いて溜めた巾着の銭で、売薬を買ったりして飲んだ。
 去る三月の事、ある午後墓守一家が門前にぶらついて居ると、墓地の方から娘が来る。彼女であった。「あゝお安さん」と声をかけつゝ、顔を見て喫驚《びっくり》した。其処の墓地の石の下から出て来たかと思わるゝ様な凄《すご》い黯《くら》い顔をして居る。「あゝ気分が悪いのですね、早く帰ってお休み」と妻が云うた。気分が悪くて裁縫《さいほう》の稽古から帰って来たのであった。彼女は其れっきり元気には復さなかった。彼女の家では牛乳をとってのませた。彼女の兄は東京に下肥引きに往った帰りに肴《さかな》を買って来ては食わした。然し彼女は日々衰えた。遠慮勝の彼女は親兄弟にも遠慮した。死ぬる二三日前、彼女はぶらりと起きて来て、産後の弱った体で赤ん坊を見て居る母の背《うしろ》に立ち、わたしが赤ん坊を見て居るから阿母《おっかさん》は少しお休みと云うた。死ぬる前日は、父に負われて屋敷内を廻ってもらって喜んだ。其翌日も父は負って出た。父が唯一房咲いた藤の花を折ってやったら、彼女は枕頭《まくらもと》の土瓶に插して眺めて喜んだ。其夜彼女は父を揺《ゆ》り起し、「わたしが快《よ》くなったら如何でもして恩報じをするから、今夜は苦艱《くげん》だから、済まないが阿爺さん起きて居てお呉れ、阿母《おっかさん》は赤ん坊や何かでくたびれきって居るから」と云うた。而して翌朝到頭息を引取った。彼女は十六であった。彼女の家は、神道《しんどう》禊教《みそぎきょう》の信徒で、葬式も神道であった。兄の二人、弟の一人と、姉婿が棺側に附いて、最早墓守夫妻が其亡くなった姉をはじめて識った頃の年頃《としごろ》になった彼女の妹が、紫の袴をはいて位牌を持った。六十前後の老衰した神官が拍手《かしわで》を打って、「下田安子の命《みこと》が千代の住家と云々」と祭詞を読んだ。快くなったら姉の嫁した家へ遊びに行くと云って、彼女は晴衣を拵《こさ》えてもらって喜んで居たが、到頭其れを着る機会もなかった。棺の上には銘仙の袷《あわせ》が覆《おお》うてあった。其棺の小さゝを見た時、十六と云う彼女の本当にまだ小供であったことを思うた。赤土を盛った墓の前には、彼女が常用の膳の上に飯を盛った茶碗、清水を盈《み》たした湯呑なぞならべてあった。墓が近いので、彼女の家の者はよく墓参に来た。墓守の家の女児も時々園の花を折って往って墓に插《さ》した。三年前砲兵にとられた彼女の二番目の兄は、此の春肩から腹にかけて砲車に轢《ひ》かれ、已に危い一命を纔《わずか》にとりとめて先日めでたく除隊《じょたい》になって帰った。「お安さんは君の身代りに死んだのだ、懇《ねんごろ》に弔うて遣り玉え」墓守は斯く其の若者に云うた。

       五

 墓地が狭いので、新しい棺は大抵古い骨の上に葬る。先年村での旧家の老母を葬る日、墓守がぶらりと墓地に往って見たら、墓掘り役の野ら番の一人が掘り出した古い髑髏《されこうべ》を見せて、
「御覧なさい、頬の格好が斯《こ》う仁左衛門さんに肖てるじゃありませんか。先祖ってえものは、矢張り争われないもんですな」
と云うた。泥まみれの其の髑髏は、成程頬骨の張り方が、当主の仁左衛門さんそっくりであった。土から生れて土に働く土の精、土の化物《ばけもの》とも云うべき農家の人は、死んで土になる事を自然の約束として少しも怪むことを為《し》ない。ある婆さんを葬る時、村での豪家と立てられる伊三郎さんが、野ら番の一人でさっさと赤土を掘りながら、ホトケの息子《むすこ》の一人に向い、
「でも好い時だったな、来月になると本当に忙しくてやりきれンからナ」と極めて平気で云うて居た。息子も平気で頷《うなず》いて居た。死人の手でも借りたい程忙しい六七月に葬式があると、事である。村の迷惑になるので、小供の葬式は、成るべくこっそりする。ある夜、墓守が外から帰って来ると、墓地に一点の火光《あかり》が見える。やゝ紅《あか》い火である。立とまってじいと見て居た彼は
前へ 次へ
全69ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング