と、それから緑の縞《しま》を土に織り出して最早ぼつ/\生えて来た大麦小麦ばかりである。
 霜は霽《はれ》に伴う。霜の十一月は、日本晴《にっぽんばれ》の明るい明るい月である。富士は真白。武蔵野の空は高く、たゝけばカン/\しそうな、碧瑠璃《へきるり》になる。朝日夕日が美しい。月や星が冴《さ》える。田は黄色から白茶《しらちゃ》になって行く。此処其処の雑木林や村々の落葉木が、最後の栄《さかえ》を示して黄に褐《かち》に紅に照り渡る。緑の葉の中に、柚子《ゆず》が金の珠を掛ける。光明は空《そら》から降《ふ》り、地からも湧《わ》いて来る。小学校の運動会で、父兄が招かれる。村の恵比寿《えびす》講《こう》、白米五合銭十五銭の持寄りで、夜徹《よっぴて》の食ったり飲んだり話したりがある。日もいよ/\短くなる。甘藷や里芋も掘って、土窖《あな》に蔵《しま》わねばならぬ。中稲《なかて》も苅らねばならぬ。其内に晩稲《おくて》も苅らねばならぬ。でも、夏の戦闘《たたかい》に比べては、何を云っても最早しめたものである。朝霜、夜嵐《よあらし》、昼は長閑《のどか》な小春日がつゞく。「小春日や田舎に廻る肴売《さかなうり》」。「※[#「魚+是」、第4水準2−93−60]《しこ》は? ※[#「魚+是」、第4水準2−93−60]?」「秋刀魚《さんま》や秋刀魚!」のふれ声が村から村を廻《まわ》ってあるく。牛豚肉は滅多《めった》に食わず、川魚は少《すくな》し、稀《まれ》に鼬《いたち》に吸われた鶏《とり》でも食えば骨《ほね》までたゝいて食い、土の物の外は大抵|塩鮭《しおざけ》、めざし、棒鱈にのみ海の恩恵を知る農家も、斯様《こん》な時には炙《あぶ》れば青い焔《ほのお》立《た》つ脂ぎった生魚を買って舌鼓《したつづみ》うつのである。
 月の末方《すえがた》には、除隊の兵士が帰って来る。近衛か、第一師団か、せめて横須賀《よこすか》位《ぐらい》ならまだしも、運悪く北海道三界|旭川《あさひがわ》へでもやられた者は、二年ぶり三年ぶりで帰って来るのだ。親類《しんるい》縁者《えんじゃ》は遠出の出迎、村では村内少年音楽隊を先に立て、迎何々君之帰還《なになにくんのきかんをむかう》の旗押立てゝ、村界まで迎いに出かける。二年三年の兵営《へいえい》生活《せいかつ》で大分|世慣《よな》れ人ずれて来た丑之助君が、羽織袴、靴、中折帽、派手《はで》をする向きは新調のカーキー服にギュウ/\云う磨き立ての長靴、腰の淋《さび》しいのを気にしながら、胸に真新《まあたら》しい在郷軍人|徽章《きしょう》をつるして、澄まし返《かえ》って歩いて来る。面々|各自《てんで》の挨拶がある。鎮守の宮にねり込んで、取りあえず神酒《みき》一献《いっこん》、古顔の在郷軍人か、若者頭の音頭《おんど》で、大日本帝国、天皇陛下、大日本帝国陸海軍、何々丑之助君の万歳がある。丑之助君が何々有志諸君の万歳を呼ぶ。其れから丑之助君を宅《たく》へ送って、いよ/\飲食《のみくい》だ。赤の飯、刻※[#「魚+昜」、上巻−147−8]《きざみするめ》菎蒻《こんにゃく》里芋蓮根の煮染《にしめ》、豆腐に芋の汁、はずんだ家では菰冠《こもかぶ》りを一樽とって、主も客も芽出度《めでたい》と云って飲み、万歳と云っては食い、満腹満足、真赤《まっか》になって祝うのだ。二三日すると帰り新参《しんざん》の丑之助君が、帰った時の服装《なり》で神妙《しんみょう》に礼廻りをする。軒別に手拭か半紙。入営に餞別《せんべつ》でも貰った家へは、隊名姓名を金文字で入れた盃や塗盆《ぬりぼん》を持参する。兵士一人出す家の物入も大抵では無い。
 兵隊さんの出代《でがわ》りで、除隊を迎えると、直ぐ入営送りだ。体格がよく、男の子が多くて、陸海軍拡張の今日と来て居るので、何れの字からも二人三人兵士を出さぬ年は無い。白羽《しらは》の箭が立った若者には、勇んで出かける者もある。抽籤《くじ》を遁《のが》れた礼参りに、わざ/\鴻《こう》の巣《す》在《ざい》の何宮さんまで出かける若者もある。二十歳《はたち》前後が一番百姓仕事に実《み》が入る時ですから、とこぼす若い爺《とっ》さんもある。然し全国皆兵の今日だ。一人息子でも、可愛息子でも、云い聞かされた「国家の為」だ、出せとあったら出さねばならぬ。出さぬと云ったら、お上に済まぬ。近所に済まぬ。そこで父の右腕《みぎうで》、母のおもい子の岩吉も、頭は五分刈、中折帽、紋付羽織、袴、靴、凜《りゅう》とした装《なり》で、少しは怯々《おどおど》した然し澄《す》ました顔をして、鎮守の宮で神酒《みき》を飲まされ、万歳の声と、祝入営の旗五六本と、村楽隊と、一字総出の戸主連に村はずれまで見送られ、知らぬ生活に入る可く往ってしまう。二三日、七八日《ななようか》過ぐると、軒別に入営済《にゅうえいずみ》の御礼のはがきが来る。

       十二

 兵隊さんの出代りを村の一年最後の賑合にして、あとは寂《さび》しい初冬の十二月に入る。
「稼収《かおさまって》平野濶《へいやひろし》」晩稲も苅られて、田圃《たんぼ》も一望ガランとして居る。畑の桑は一株ずつ髻《もとどり》を結《ゆ》われる。一束ずつ奇麗に結わえた新藁《しんわら》は、風よけがわりにずらりと家の周囲《まわり》にかけられる。ざら/\と稲を扱《こ》く音。カラ/\と唐箕車《とうみぐるま》を廻す響《おと》。大根引、漬菜洗い、若い者は真赤な手をして居る。昼《ひる》は北を囲うた南向きの小屋の蓆《むしろ》の上、夜は炉《ろ》の傍《はた》で、かみさんはせっせと股引、足袋を繕《つくろ》う。夜は晩くまで納屋《なや》に籾《もみ》ずりの響がする。突然《だしぬけ》にざあと時雨《しぐれ》が来る。はら/\と庇《ひさし》をうって霰《あられ》が来る。ちら/\と風花《かざはな》が降る。北から凩《こがらし》が吹いて来て、落葉した村の木立を騒々しく鳴らす。乾いた落葉が、遽《あわ》てゝカラカラと舞い奔《はし》る。箒を逆《さかさ》に立てた様な雑木山に、長い鋸《のこ》を持った樵夫《さきやま》が入って、啣《くわ》え煙管《ぎせる》で楢《なら》や櫟《くぬぎ》を薪に伐《き》る。海苔疎朶《のりそだ》を積んだ車が村を出る。冬至までは、日がます/\つまって行く。六時にまだ小暗《おぐら》く、五時には最早《もう》闇《くら》い。流しもとに氷が張る。霜が日に/\深くなる。
 十五日が世田《せた》ヶ谷《や》のボロ市。世田ヶ谷のボロ市は見ものである。松陰《しょういん》神社《じんじゃ》の入口から世田ヶ谷の上宿《かみじゅく》下宿を打通して、約一里の間は、両側にずらり並んで、農家日用の新しい品々は素より、東京中の煤掃《すすは》きの塵箱《ごみばこ》を此処へ打ち明けた様なあらゆる襤褸《ぼろ》やガラクタをずらりと並べて、売る者も売る、買う者も買う、と唯驚かるゝばかりである。見世物が出る。手軽な飲食店が出る。咽《のど》を稗《ひえ》が通る様に、店の間を押し合いへし合いしてぞろ/\人間《にんげん》が通る。近郷《きんごう》近在の爺さん婆さん若い者女子供が、股引《ももひき》草鞋《わらじ》で大風呂敷を持ったり、荷車を挽《ひ》いたり、目籠《めかご》を背負ったりして、早い者は夜半から出かける。新しい莚《むしろ》、筍掘器《たけのこほり》、天秤棒を買って帰る者、草履《ぞうり》の材料やつぎ切れにする襤褸《ぼろ》を買う者、古靴を値切《ねぎ》る者、古帽子、古洋燈、講談物《こうだんもの》の古本を冷かす者、稲荷鮨《いなりずし》を頬張《ほおば》る者、玉乗の見世物の前にぽかんと立つ者、人さま/″\物さま/″\の限を尽す。世田ヶ谷のボロ市を観《み》て悟《さと》らねばならぬ、世に無用のものは無い、而《そう》して悲観は単に高慢であることを。
 ボロ市過ぎて、冬至もやがてあとになり、行く/\年も暮《くれ》になる。蛇《へび》は穴に入り人は家に籠《こも》って、霜枯《しもがれ》の武蔵野は、静かな昼《ひる》にはさながら白日《まひる》の夢に定《じょう》に入る。寂しそうな烏が、此|樫《かし》の村から田圃を唖々《ああ》と鳴きながら彼|欅《けやき》の村へと渡る。稀には何処から迷い込んだか洋服ゲートルの猟者が銃先《つつさき》に鴫《しぎ》や鵯《ひよ》のけたゝましく鳴いて飛び立つこともあるが、また直ぐともとの寂しさに返える。凩《こがらし》の吹く夜は、海の様な響《ひびき》が武蔵野に起って、人の心を遠く遠く誘《さそ》うて行く。但東京の屋敷に頼《たの》まれて餅を搗く家や、小使取りに餅舂《もちつ》きに東京に出る若者はあっても、村其ものには何処《どこ》に師走《しわす》の忙《せわ》しさも無い。二十五日、二十八日、晦日《みそか》、大晦日、都の年の瀬は日一日と断崖《だんがい》に近づいて行く。三里東の東京には、二百万の人の海、嘸《さぞ》さま/″\の波も立とう。日頃《ひごろ》眺むる東京の煙も、此四五日は大息《おおいき》吐息《といき》の息巻荒く※[#「風+昜」、第3水準1−94−7]《あが》る様に見える。然し此処《ここ》は田舎である。都の師走《しわす》は、田舎の霜月《しもつき》。冬枯《ふゆがれ》の寂しい武蔵野は、復活の春を約して、麦が今二寸に伸びて居る。気に入りの息子を月の初に兵隊にとられて、寂しい心の辰《たつ》爺《じい》さんは、冬至が過ぎれば日が畳の目一つずつ永くなる、冬のあとには春が来る、と云う信仰の下に、時々|竹箆《たけべら》で鍬の刃につく土を落しつゝ、悠々《ゆうゆう》と二寸になった麦のサクを切って居る。
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     媒妁

 結婚の媒妁《なかだち》を頼まれた。式は宜い様にやってくれとの事である。新郎《しんろう》とは昨今の知合で、新婦は初めて名を聞いた。媒妁なンか経験もなし、断ったが、是非との頼《たの》み、諾《よし》と面白半分引受けてしもうた。
 明治四十年の九月|某日《それのひ》、媒妁夫妻は小婢《こおんな》と三人がかりで草屋の六畳二室を清《きよ》め、赤、白、鼠、婢の有《もの》まで借りて、あらん限りの毛布を敷きつめた。家のまわりも一《ひと》わたり掃《は》いた。隔ての唐紙《からかみ》を取払い、テーブルを一脚《いっきゃく》東向きに据《す》え、露ながら折って来た野の草花を花瓶《かへい》一ぱいに插《さ》した。女郎花《おみなえし》、地楡《われもこう》、水引、螢草、うつぼ草、黄碧紫紅《こうへきしこう》入り乱れて、あばら家も為に風情《ふぜい》を添えた。媒妁夫妻は心嬉しく、主人は綿絽《めんろ》の紋付羽織に木綿茶縞の袴、妻は紋服《もんぷく》は御所持なしで透綾《すきや》の縞の単衣にあらためて、徐《しずか》に新郎新婦の到着を待った。
 正午過ぎ、村を騒がして八台の車が来た。新郎新婦及縁者の人々である。新婦は初めて見た。眼のきれの長い佳人《かじん》である。更衣室も無いので、仕切りの障子をしめ、二畳の板の間を半分《はんぶん》占《し》めた古長持の上に妻の鏡台《きょうだい》を置いた。鏡台の背には、破簾《やれみす》を下げて煤《すす》だらけの勝手を隔てた。二十分の後此|楽屋《がくや》から現われ出た花嫁君《はなよめぎみ》を見ると、秋草の裾模様《すそもよう》をつけた淡紅色《ときいろ》絽《ろ》の晴着で、今咲いた芙蓉《ふよう》の花の様だ。花婿も黒絽紋付、仙台平の袴、凜《りゅう》として座って居る。
 媒妁は一咳《いちがい》してやおら立上った。
「勝田慶三郎」
「松居千代」
 卒業免状でも渡す時の様に、声《こえ》厳《おごそか》に新郎新婦を呼び出して、テーブルの前に立たせた。而《そう》して媒妁は自身愛読する創世記《そうせいき》イサク[#「イサク」に傍線]、リベカ[#「リベカ」に傍線]結婚の条を朗々《ろうろう》と読み上げた。
「祈祷《きとう》を致します」
 斯く云って、媒妁がやゝ久しく精神を統一すべく黙って居ると、
「祈祷を致すのでございますか」
と新郎がやゝ驚いた様に小声できく。媒妁は頓着《とんじゃく》なく祝祷《しゅくとう》をはじめた。
 祈祷が終る。妻が介抱《かいほう》して、新郎新婦を握手させる。一旦新婦の手からぬいて置いた指環
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