望な人の畑や林は、此時こそ思い切り切りまくる。昔は兎に角、此の頃では世の中せち辛《から》くなって、物日にも稼《かせ》ぐことが流行する。総郷上り正月にも、畑に田にぽつ/\働く影を見うける。
八月は小学校も休業《やすみ》だ。八月七日は村の七夕《たなばた》、五色の短冊《たんざく》さげた笹《ささ》を立つる家もある。やがて于蘭盆会《うらぼんえ》。苧殻《おがら》のかわりに麦からで手軽に迎火《むかえび》を焚《た》いて、それでも盆だけに墓地も家内《やうち》も可なり賑合《にぎわ》い、緋の袈裟《けさ》をかけた坊さんや、仕着せの浴衣単衣で藪入《やぶいり》に行く奉公男女の影や、断続《だんぞく》して来る物貰いや、盆らしい気もちを見せて通る。然し斯《この》貧《まず》しい小さな野の村では、昔から盆踊《ぼんおど》りと云うものを知らぬ。一年中で一番好い水々《みずみず》しい大きな月が上《あが》っても、其れは断片的《きれぎれ》に若者の歌を嗾《そそ》るばかりである。まる/\とした月を象《かた》どる環《わ》を作って、大勢の若い男女が、白い地を践《ふ》み、黒い影を落して、歌いつ踊《おど》りつ夜を深して、傾《かたぶ》く月に一人《ひとり》減《へ》り二人《ふたり》寝に行き、到頭《とうとう》「四五人に月落ちかゝる踊かな」の趣《おもむき》は、此《この》辺《へん》の村では見ることが出来ぬ。
夏蚕《なつご》を飼《か》う家はないが、秋蚕を飼う家は沢山《たくさん》ある。秋蚕を飼えば、八月はまだ忙《せわ》しい月だ。然し秋蚕のまだ忙しくならぬ隙《すき》を狙《ねら》って、富士詣《ふじまいり》、大山詣、江の島鎌倉の見物をして来る者も少くない。大山へは、夜立ちして十三里|日着《ひづ》きする。五円持て夜徹《よどお》し歩るき、眠たくなれば堂宮《どうみや》に寝て、唯一人富士に上って来る元気な若者もある。夏の命《いのち》は日と水だ。照らねばならず、降らねばならぬ。多摩川遠い此村里では、水害の患《うれい》は無いかわり、旱魃《かんばつ》の恐れがある。大抵は都合よく夕立《ゆうだち》が来てくれる。雨乞《あまごい》は六年間に唯一度あった。降って欲しい時に降れば、直ぐ「おしめり正月」である。伝染病が襲うて来るも此月だ。赤痢《せきり》、窒扶斯《ちぶす》で草葺の避病院が一ぱいになる年がある。真白い診察衣《しんさつい》を着た医員が歩く。大至急清潔法施行の布令《ふれ》が来る。村の衛生係が草鞋ばきの巡査さんと溷《どぶ》、掃溜《はきだめ》を見てあるく。其巡査さんの細君が赤痢になったと云う評判が立つ。鉦《かね》や太鼓で念仏《ねんぶつ》唱《とな》えてねりあるき、厄病禳《やくびょうばら》いする村もある。
其様《そん》な騒《さわ》ぎも何時しか下火になって、暑い/\と云う下から、ある日|秋蝉《つくつくぼうし》がせわしく鳴きそめる。武蔵野の秋が立つ。早稲が穂を出す。尾花《おばな》が出て覗《のぞ》く。甘藷を手掘りすると、早生は赤児《あかご》の腕程になって居る。大根、漬菜《つけな》を蒔かねばならぬ。蕎麦、秋馬鈴薯もそろ/\蒔かねばならぬ。暫《しばら》く緑一色であった田は、白っぽい早稲の穂の色になり、畑では稗《ひえ》が黒く、黍《きび》が黄に、粟が褐色《かちいろ》に熟《う》れて来る。粟や黍は餅《もち》にしてもまだ食える。稗は乃木さんでなければ中々食えぬ。此辺では、米を非常、挽割麦《ひきわりむぎ》を常食にして、よく/\の家でなければ純稗《さらひえ》の飯は食わぬ。下肥《しもごえ》ひきの弁当に稗の飯でも持って行けば、冷たい稗はザラ/\して咽《のど》を通らぬ。湯でも水でもぶっかけてざぶ/\流し込むのである。若い者の楽《たのしみ》の一は、食う事である。主人は麦を食って、自分に稗を食わした、と忿《いか》って飛び出した作代《さくだい》もある。
九
九月は農家の厄月《やくづき》、二百十日、二百二十日を眼の前に控えて、朔日《ついたち》には風祭をする。麦桑に雹《ひょう》を気づかった農家は、稲に風を気づかわねばならぬ。九月は農家の鳴戸《なると》の瀬戸だ。瀬戸を過ぐれば秋の彼岸《ひがん》。蚊帳《かや》を仕舞う。おかみや娘の夜延《よなべ》仕事が忙しくなる。秋の田園詩人の百舌鳥《もず》が、高い栗の梢から声高々と鳴きちぎる。栗が笑《え》む。豆の葉が黄ばむ。雁来紅《けいとう》が染《そ》むを相図に、夜は空高く雁《かり》の音《ね》がする。林の中、道草の中、家の中まで入り込んで、虫と云う虫が鳴き立てる。早稲が黄ろくなりそめる。蕎麦の花は雪の様だ。彼岸花と云う曼珠沙華《まんじゅしゃげ》は、此辺に少ない。此あたりの彼岸花は、萩《はぎ》、女郎花《おみなえし》、嫁菜《よめな》の花、何よりも初秋の栄《さかえ》を見せるのが、紅く白く沢々《つやつや》と絹総《きぬぶさ》を靡《なび》かす様な花薄《はなすすき》である。子供が其れを剪《き》って来て、十五夜の名月様に上げる。萱は葺料にして長もちするので、小麦からの一束《ひとたば》五厘に対し、萱は一銭も其上もする。そこで萱野《かやの》を仕立てゝ置く家もある。然し東京がます/\西へ寄って来るので、萱野も雑木山も年々減って行くばかりである。
九月は農家の祭月《まつりづき》、大事な交際季節《シーズン》である。風の心配も兎やら恁《こ》うやら通り越して、先|収穫《しゅうかく》の見込がつくと、何処《どこ》の村でも祭をやる。木戸銭御無用、千客万来の芝居、お神楽《かぐら》、其れが出来なければ詮方《せんかた》無しのお神酒《みき》祭《まつり》。今日は粕谷か、明日《あす》は廻沢《めぐりさわ》烏山《からすやま》は何日で、給田が何日、船橋では、上下祖師ヶ谷では、八幡山では、隣村の北沢では、と皆が指折《ゆびおり》数《かぞ》えて浮き立つ。彼方の村には太鼓が鳴る。此方《こち》の字《あざ》では舞台《ぶたい》がけ。一村八字、寄合うて大きくやればよさそうなものゝ、八つの字には八つの意志と感情と歴史があって、二百戸以上の烏山はもとより、二十七戸の粕谷でも、十九|軒《けん》の八幡山でも、各自に自家《うち》の祭をせねば気が済《す》まぬ。祭となれば、何様な家でも、強飯《おこわ》を蒸《ふか》す、煮染《にしめ》をこさえる、饂飩《うどん》をうつ、甘酒《あまざけ》を作って、他村の親類縁者を招く。東京に縁づいた娘も、子を抱き亭主や縁者を連れて来る。今日は此方のお神楽《かぐら》で、平生《ふだん》は真白な鳥の糞《ふん》だらけの鎮守の宮も真黒《まっくろ》になる程人が寄って、安小間物屋、駄菓子屋、鮨屋《すしや》、おでん屋、水菓子屋などの店が立つ。神楽は村の能狂言《のうきょうげん》、神官が家元で、村の器用な若者等が神楽師《かぐらし》をする。無口で大兵の鉄さんが気軽に太鼓をうったり、気軽の亀さんが髪髯《かみひげ》蓬々《ぼうぼう》とした面をかぶって真面目に舞台に立ちはだかる。「あ、ありゃ亀さんだよ、まァ」と可笑《おか》しざかりのお島がくつ/\笑う。今日自家の祭酒に酔うた仁左衛門さんが、明日は隣字の芝居で、透綾《すきや》の羽織でも引被《ひっか》け、寸志の紙包《かみづつみ》を懐中して、芝居へ出かける。毎日近所で顔を合して居ながら、畑の畔《くろ》の立話にも、「今日は」「今日は」と抑《そもそも》天気の挨拶からゆる/\とはじめる田舎《いなか》気質《かたぎ》で、仁左衛門さんと隣字の幹部の忠五郎さんとの間には、芝居《しばい》の科白《せりふ》の受取渡しよろしくと云う挨拶が鄭重《ていちょう》に交換される。輪番《りんばん》に主になったり、客になったり、呼びつ喚ばれつ、祭は村の親睦会だ。三多摩は昔から人の気の荒い処で、政党騒ぎではよく血の雨を降らし、気の立った日露戦争時代は、農家の子弟が面|籠手《こて》かついで調布まで一里半撃剣の朝稽古に通ったり柔道を習ったりしたものだが、六年前に一度粕谷八幡山対烏山の間に大喧嘩《おおげんか》があって、仕込杖《しこみづえ》が光ったり怪我人が出来たり長い間|揉《も》めくった以来、此と云う喧嘩の沙汰も聞かぬ。泰平有象《たいへいしょうあり》村々酒《そんそんのさけ》。祭が繁昌すれば、田舎は長閑《のどか》である。
十
十月だ。稲の秋。地は再び黄金の穂波が明るく照り渡る。早稲《わせ》から米になって行く。性急《せいきゅう》に百舌鳥《もず》が鳴く。日が短くなる。赤蜻蛉《あかとんぼ》が夕日の空に数限りもなく乱れる。柿が好い色に照って来る。ある寒い朝、不図《ふと》見ると富士の北の一角《いっかく》に白いものが見える。雨でも降ったあとの冷たい朝には、水霜がある。
十月は雨の月だ。雨がつゞいたあとでは、雑木林に茸《きのこ》が立つ。野ら仕事をせぬ腰の曲った爺さんや、赤児を負ったお春っ子が、笊《ざる》をかゝえて採りに来る。楢茸《ならたけ》、湿地茸《しめじだけ》、稀に紅茸、初茸は滅多になく、多いのが油坊主《あぶらぼうず》と云う茸だ。一雨一雨に気は冷えて行く。田も林も日に/\色づいて行く。甘藷《さつま》が掘られて、続々都へ運ばれる。田舎は金が乏しい。村会議員の石山さんも、一銭|違《ちが》うと謂うて甲州街道の馬車にも烏山から乗らずに山谷《さんや》から乗る。だから、村の者が甘藷を出すにも、一貫目につき五厘も値《ね》がよければ、二里の幡《はた》ヶ谷《や》に下ろすより四里の神田へ持って行く。
茶の花が咲く。雑木林の楢に絡《から》む自然薯《じねんじょ》の蔓《つる》の葉が黄になり、藪《やぶ》からさし出る白膠木《ぬるで》が眼ざむる様な赤《あか》になって、お納戸色《なんどいろ》の小さなコップを幾箇も列《つら》ねて竜胆《りんどう》が咲く。樫《かし》の木の下は、ドングリが箒《ほうき》で掃く程だ。最早|豌豆《えんどう》や蚕豆《そらまめ》も蒔《ま》かねばならぬ。蕎麦も霜前に苅《か》らねばならぬ。また其れよりも農家の一大事、月の下旬から来月初旬にかけて、最早麦蒔きがはじまる。後押しの二人もついて、山の如く堆肥《たいひ》を積んだ車が頻《しきり》に通る。先ず小麦を蒔いて、後に大麦を蒔くのである。奇麗に平《なら》した畑は一条《ひとすじ》一条丁寧に尺竹《しゃくだけ》をあて、縄ずりして、真直ぐに西から東へ畝《うね》を立て、堆肥を置いて土をかけ、七蔵が種を振《ふ》れば、赤児を負った若いかみさんが竹杖《たけづえ》ついて、片足かわりに南から北へと足で土をかけて、奇麗に踏んづけて行く。燻炭《くんたん》肥料の、条播《すじまき》のと、農会の勧誘《かんゆう》で、一二年やって見ても、矢張仕来りの勝手がよい方でやって行くのが多い。
十一
霜らしい霜は、例年明治天皇の天長節《てんちょうせつ》、十一月三日頃に来る。手を浄《きよ》めに前夜雨戸をあくれば、鍼先《はりさき》を吹っかくる様な水気《すいき》が面を撲《う》って、遽《あわ》てゝもぐり込む蒲団の中でも足の先が縮《ちぢ》こまる程いやに冷《つめ》たい、と思うと明くる朝は武蔵野一面の霜だ。草屋根と云わず、禾場《うちば》と云わず、檐下《のきした》から転び出た木臼の上と云わず、出し忘れた物干竿の上のつぎ股引《ももひき》と云わず、田も畑も路も烏《からす》の羽の上までも、真白だ。日が出ると、晶々《きらきら》とした白金|末《まつ》になり、紫水晶末になるのである。山風をあらしと云えば霜の威力を何に譬《たと》えよう? 地の上の白火事《しろかじ》とでも云おう。大抵のものは爛《ただ》れてしまう。桑と云う桑の葉は、ぐったりとなって、二日もすれば、歯がぬける様にひとりでにぼろりと落ちる。生々《いきいき》として居た甘藷の蔓は、唯一夜に正しく湯煎《うで》られた様に凋《しお》れて、明くる日は最早真黒になり、触《さわ》ればぼろ/\の粉《こな》になる。シャンとして居た里芋《さといも》の茎《くき》も、ぐっちゃりと腐った様になる。畑が斯うだから、園の内も青い物は全滅《ぜんめつ》、色ある物は一夜に爛《ただ》れて了うのである。霜にめげぬは、青々《あおあお》とした大根の葉と、霜で甘くなる漬菜《つけな》の類《たぐい》
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