くび》をして往って了うた。
 一般的乞食の外に、特別名指しの金乞いも時々来る。やりたくても無い時があり、あってもやりたくない時があり、二拍子《ふたひょうし》揃《そろ》って都合よくやる時もあり、ふかし甘藷《いも》二三本新聞紙に包《つつ》んで御免を蒙る場合もある。然し斯様《こん》な特別のは別にして、彼が村居《そんきょ》六年の間に懇意《こんい》になった乞食が二人ある。仙《せん》さんと安《やす》さん。
 仙さんは多少《たしょう》富裕《ゆたか》な家の息子の果であろう。乞食になっても権高《けんだか》で、中々吾儘である。五分苅頭《ごぶがりあたま》の面桶顔《めんつうがお》、柴栗を押つけた様な鼻と鼻にかゝる声が、昔の耽溺《たんでき》を語って居る。仙さんは自愛家である。飲料《いんりょう》には屹度《きっと》湯をくれと云う。曾て昆布《こんぶ》の出しがらをやったら、次ぎに来た時、あんな物をくれるから、醤油《しょうゆ》を損した上に下痢《げり》までした、と嗔《いか》った。小婢《こおんな》一人留守して居る処に来ては、茶をくれ、飯をくれ、果てはお前の着て居る物を脱いでくれ、と強請《ねだ》って、婢は一ちゞみになったことがある。主婦が仙さんの素生《すじょう》を尋ねかけたら、「乃公《おれ》に喧嘩を売るのか」と仙さんは血相を変えた。ある時やるものが無くて梅干《うめぼし》をやったら、斯様なものと顔をしかめる。居合わした主人は、思わず勃然《むっ》として、貰う者の分際《ぶんざい》で好悪《よしあし》を云う者があるか、と叱《しか》りつけたら、ブツ/\云いながら受取ったが、門を出て五六歩行くと雑木林《ぞうきばやし》に投げ棄てゝ往った。追かけて撲《ぶ》ちのめそうか、と思ったが、やっと堪《こら》えた。彼は此後仙さんを憎《にく》んだ。其後一二度来たきり、此二三年は頓斗《とんと》姿《すがた》を見せぬ。
 我強《がづよ》い仙さんに引易《ひきか》え、気易《きやす》の安さんは村でもうけがよい。安さんは五十位、色の浅黒《あさぐろ》い、眼のしょぼ/\した、何処《どこ》やらのっぺりした男である。安さんは馬鹿を作って居る。夏着《なつぎ》冬着ありたけの襤褸《ぼろ》の十二一重《じゅうにひとえ》をだらりと纏《まと》うて、破れしゃっぽのこともあり、黒い髪を長く額に垂らして居ることもあり、或は垢染《あかじ》みた手拭を頬冠《ほおかむ》りのこともある。下駄を片足、藁草履《わらぞうり》を片足、よく跛|曳《ひ》いてあるく。曾《かつ》て穿《は》きふるしの茶の運動靴《うんどうぐつ》をやったら、早速穿いて往ったが、十日たゝぬ内に最早《もう》跣足《はだし》で来た。
 江戸の者らしい。何時《いつ》、如何な事情の下に乞食になったか、余程話を引出そうとしても、中々其手に乗らぬ。唯床屋をして居たと云う。剃刀《そり》の磨《と》ぐのでもありませんか、とある時云うた。主人の髯《ひげ》は六七年来放任主義であまりうるさくなると剪《はさみ》で苅《か》るばかりだし、主婦は嫁《か》して来て十八年来一度も顔を剃《す》ったことがないので、家には剃刀《かみそり》と云うものが無い。折角の安さんの親切も、無駄であった。然し剃刀《そり》があった処で、あの安さんの清潔《きれい》な手では全く恐れ入る。
 いつも門口《かどぐち》に来ると、杖のさきでぱっ/\と塵《ごみ》を掃く真似をする。其|響《おと》を聞いたばかりで、安さんと分《わか》った。「おゝそれながら……」と中音で拍子《ひょうし》をとって戸口に立つこともある。「春雨《はるさめ》にィ……」と小声で歌うて来ることもある。ある時来たのを捉《つらま》えて、笊《ざる》で砂利を運ぶ手伝をさせ、五銭やったら、其れから来る毎に「仕事はありませんか」と云う。時々は甘えて煙草をくれと云う。此家《うち》では喫《の》まぬと云っても、忘れてはまた煙草をくれと云う。正直の仙さんは一剋《いっこく》で向張りが強く、智慧者《ちえしゃ》の安さんは狡獪《ずる》くて軟《やわらか》な皮をかぶって居た。
 夏は乞食の天国である。夏は我儕《われら》も家なンか厄介物を捨てゝしもうて、野に寝、山に寝、日本国中世界中乞食して廻《まわ》りたい気も起る。夏は乞食の天国である。唯|蚊《か》だけが疵《きず》だが、至る処の堂宮《どうみや》は寝室《ねま》、日蔭《ひかげ》の草は茵《しとね》、貯えれば腐るので家々の貰い物も自然に多い。ある時、安さんが田川《たがわ》の側に跪《ひざまず》いて居るのを見た。
「何をして居るのかね、安さん?」
 声《こえ》をかけると、安さんは寝惚《ねぼ》けた様な眼をあげて、
「エ、エ、洗濯をして」
と答えた。麦藁帽《むぎわらぼう》の洗濯をして居るのであった。処々の田川は彼の洗濯場で、また彼の浴槽であった。
 冬は惨《みじめ》だ。小屋かけ、木賃宿《きちんやど》、其れ等に雨雪を凌《しの》ぐのは、乞食仲間でも威張《いば》った手合で、其様な栄耀《えいよう》が出来ぬやからは、村の堂宮《どうみや》、畑の中の肥料《こやし》小屋、止むなければ北をよけた崖《がけ》の下、雑木林の落葉の中に、焚火《たきび》を力にうと/\一夜を明《あか》すのだ。そこでよく火事が起る。彼が隣の墓地《ぼち》にはもと一寸した閻魔堂《えんまどう》があったが、彼が引越して来る少し前に乞食の焚火《たきび》から焼けて了うて、木の閻魔様は灰《はい》になり、石の奪衣婆《だつえば》ばかり焼け出されて、露天《ろてん》に片膝立てゝ恐《こわ》い顔をして居る。鎮守《ちんじゅ》八幡でも、乞食の火が険呑《けんのん》と云うので、つい去年拝殿に厳重な戸締りを設けて了うた。安さんの為に寝所《しんじょ》が一つ無くなったのである。それかあらぬか、近頃一向安さんの影を見かけなくなった。
「安さんは如何したろ?」
 彼等はしば/\斯く噂《うわさ》をした。
 昨日|婢《おんな》が突然安さんの死を報じた。近所の女児《むすめ》が斯く婢に云うたそうだ。
「安さんなァ、安さんな内のお安さんが死んだ些前《ちょっとまえ》に、は、死んじまったとよ」
 近所のお安さんと云う娘が死んだのは、五月の初であったから、乞食の安さんは桜の花の頃に死んだものと見える。
 安さんは大抵《たいてい》甲州街道南裏の稲荷《いなり》の宮に住んで居たそうだ。埋葬は高井戸でしたと云うが、如何《どん》な臨終《りんじゅう》であったやら。
「あれで中々女が好きでね、女なんかゞ一人で物を持って往ってやるといけないって、皆《みんな》が云ってました」
と婢が云うた。
 安さんが死んだか。乞食の安さんが死んだか。
「死んで安心な様な、可哀想《かあいそう》な様な気もちがしますよ」
 主婦が云うた。
 秋の野にさす雲の翳《かげ》の様に、淡《あわ》い哀《かなしみ》がすうと主人《あるじ》の心を掠《かす》めて過ぎた。
[#改丁]

   麦の穂稲穂

     村の一年

       一

 都近い此《この》辺《へん》の村では、陽暦陰暦を折衷《せっちゅう》して一月|晩《おく》れで年中行事をやる。陽暦正月は村役場の正月、小学校の正月である。いさゝか神楽《かぐら》の心得ある若者連が、松の内の賑合《にぎわい》を見物かた/″\東京に獅子舞《ししまい》に出かけたり、甲州街道を紅白美々しく飾《かざ》り立てた初荷の荷馬車が新宿さして軋《きし》らしたり、黒の帽子に紫の袈裟《けさ》、白足袋に高足駄の坊さんが、年玉を入れた萌黄《もえぎ》の大風呂敷包を頸《くび》からつるして両手で抱《かか》えた草鞋《わらじ》ばきの寺男を連れて檀家《だんか》の廻礼をしたりする外は、村は餅搗《もちつ》くでもなく、門松一本立つるでなく、至極《しごく》平気な一月である。唯|農閑《のうかん》なので、青年の夜学がはじまる。井浚《いどざら》え、木小屋の作事《さくじ》、屋根の葺《ふ》き更え、農具の修繕《しゅうぜん》なども、此|隙《すき》にする。日なたぼこりで孫いじりにも飽いた爺の仕事は、啣《くわ》え煙管《ぎせる》の背手《うしろで》で、ヒョイ/\と野らの麦踏《むぎふみ》。若い者の仕事は東京行の下肥《しもごえ》取《と》りだ。寒中の下肥には、蛆《うじ》が涌《わ》かぬ。堆肥《たいひ》製造には持て来いの季節、所謂|寒練《かんねり》である。夜永の夜延《よな》べには、親子兄弟大きな炉側《ろばた》でコト/\藁《わら》を擣《う》っては、俺ァ幾括《いくぼ》だ卿《おめえ》は何足《なんぞく》かと競争しての縄綯《なわな》い草履《ぞうり》草鞋《わらじ》作り。かみさんや娘は、油煙《ゆえん》立つランプの傍《はた》でぼろつぎ。兵隊に出て居る自家《うち》の兼公の噂も出よう。東京帰りに兄が見て来た都の嫁入《よめいり》車《ぐるま》の話もあろう。
 都では晴《はれ》の春着も夙《とう》に箪笥の中に入って、歌留多会の手疵《てきず》も痕《あと》になり、お座敷《ざしき》つゞきのあとに大妓《だいぎ》小妓のぐったりとして欠伸《あくび》を噛《か》む一月末が、村の師走《しわす》の煤掃《すすは》き、つゞいて餅搗《もちつ》きだ。寒餅《かんもち》はわるくならぬ。水に浸《ひた》して置いて、年中の茶受《ちゃうけ》、忙《せわ》しい時の飯代り、多い家では一石も二石も搗く。縁者《えんじゃ》親類加勢し合って、歌声《うたごえ》賑《にぎ》やかに、東でもぽったん、西でもどったん、深夜《しんや》の眠を驚かして、夜の十二時頃から夕方までも舂《つ》く。陽暦で正月を済《す》ましてとくに餅は食うてしもうた美的《びてき》百姓の家へ、にこ/\顔の糸ちゃん春ちゃんが朝飯前に牡丹餅《ぼたもち》を持て来てくれる。辰|爺《じい》さん家《とこ》のは大きくて他家《よそ》の三倍もあるが、搗《つ》きが細かで、上手《じょうず》に紅入の宝袋《たからぶくろ》なぞ拵《こさ》えてよこす。下田の金さん処《とこ》のは、餡《あん》は黒砂糖だが、手奇麗《てぎれい》で、小奇麗な蓋物《ふたもの》に入れてよこす。気取ったおかず婆さんからは、餡がお気に召すまいからと云って、唯搗き立てをちぎったまゝで一重《ひとじゅう》よこす。礼に往って見ると、奥《おく》は正月前らしく奇麗に掃《は》かれて、土間《どま》にはちゃんと塩鮭《しおざけ》の二枚もつるしてある。

       二

 二月は村の正月だ。松立てぬ家《うち》はあるとも、着物更えて長閑《のどか》に遊ばぬ人は無い。甲州街道は木戸八銭、十銭の芝居《しばい》が立つ。浪花節が入り込む。小学校で幻燈会《げんとうかい》がある。大きな天理教会、小さな耶蘇教会で、東京から人を呼んで説教会がある。府郡の技師が来て、農事講習会がある。節分は豆撒《まめま》き。七日が七草《ななくさ》。十一日が倉開き。十四日が左義長《さぎちょう》。古風にやる家も、手軽でやらぬ家もあるが、要するに年々昔は遠くなって行く。名物は秩父《ちちぶ》颪《おろし》の乾風《からっかぜ》と霜解《しもど》けだ。武蔵野は、雪は少ない。一尺の上も積るは稀《まれ》で、五日と消えぬは珍らしい。ある年四月に入って、二尺の余も積ったのは、季節からも、量からも、井伊《いい》掃部《かもん》さん以来の雪だ、と村の爺さん達も驚いた。武蔵野は霜《しも》の野だ。十二月から三月一ぱいは、夥《おびただ》しい霜解けで、草鞋か足駄《あしだ》長靴でなくては歩かれぬ。霜枯《しもが》れの武蔵野を乾風が※[#「風+(火/(火+火))」、第3水準1−94−8]々《ひゅうひゅう》と吹きまくる。霜と風とで、人間の手足も、土の皮膚《はだ》も、悉く皹《ひび》赤《あか》ぎれになる。乾いた畑の土は直ぐ塵《ちり》に化ける。風が吹くと、雲と舞い立つ。遠くから見れば正《まさ》に火事の煙だ。火事もよくある。乾き切った藁葺《わらぶき》の家は、此《この》上《うえ》も無い火事の燃料、それに竈《へっつい》も風呂も藁屑をぼう/\燃すのだからたまらぬ。火事の少ないのが寧《むしろ》不思議である。村々字々に消防はあるが、無論間に合う事じゃない。夜遊び帰りの誰かが火を見つけて、「おゝい、火事だよゥ」と呼わる。「火事だっさ、火事は何処《どこ》だンべか、――火事だよゥ」
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