の前に問題として置かれた久さんの家を如何にす可きかと思い煩《わずろ》うた。色々の「我」が寄って形成《けいせい》して居る彼家は、云わば大《おお》きな腫物《はれもの》である。彼は眼の前に臭《くさ》い膿《うみ》のだら/\流れ出る大きな腫物を見た。然し彼は刀を下す力が無い。彼は久しく機会を待った。
 ある夏の夕、彼は南向きの縁に座って居た。彼の眼の前には蝙蝠色《こうもりいろ》の夕闇が広がって居た。其闇を見るともなく見て居ると、闇の中から湧《わ》いた様に黒い影がすうと寄って来た。ランプの光の射す処まで来ると、其れは久さんのおかみであった。彼は畳の上に退《しざ》り、おかみは縁に腰かけた。
「旦那様、新聞に出て居りましてすか」
と息をはずませて彼女は云った。それは新宿で、床屋の亭主が、弟と密通した妻と弟とを剃刀《かみそり》で殺害した事を、彼女は何処《どこ》からか聞いたのである。「余りだと思います」と彼女は剃刀の刃を己《わ》が肉《にく》にうけたかの様に切ない声で云った。
 聞く彼の胸はドキリとした。今だ、とある声が囁《ささや》いた。彼はおかみに向うて、巳代公は如何して唖になったか、と訊《き》いた。おか
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