した。買主が入り込んでのちも、其栗の木は自分が植えたの、其|韮《にら》や野菜菊は内で作ったの、其|炉縁《ろぶち》は自分のだの、と物毎に争《あらそ》うた。稲次郎の記憶が残って居る此屋敷を人手に渡すを彼女は惜んだのであった。地面は買主のでも、作ってある麦はまだおかみの麦であった。地面の主は、麦の一部を買い取るべく余儀なくされた。おかみは義兄と其|値《ね》を争うた。買主は戯談《じょうだん》に「無代《ただ》でもいゝさ」と云うた。おかみはムキになって「あなたも耶蘇教信者《やそきょうしんじゃ》じゃありませんか。信者が其様《そん》な事を云うてようござンすか」とやり込《こ》めた。彼女に恐ろしいものは無かった。ある時義兄が其|素行《そこう》について少し云々したら、泥足でぬれ縁に腰かけて居た彼女は屹《きっ》と向き直り、あべこべに義兄に喰《く》ってかゝり、老人と正直者を任《まか》せて置きながら、病人があっても本家として見もかえらぬの、慾張《よくば》ってばかり居るのと、いきり立った。彼女は人毎に本家の悪口を云って同情を獲ようとした。「本家の兄が、本家の兄が」が彼女の口癖《くちぐせ》であった。彼女は本家の兄を其
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