子供の相手になって遊ぶ位が落である。儂は最初一の非望《ひぼう》を懐いて居た。其は吾家の燈火《あかり》が見る人の喜悦になれかしと謂《い》うのであった。多少気張っても見たが、其内くたびれ、気恥《きはず》かしくなって、儂《わし》は一切《いっさい》説法《せっぽう》をよした。而して吾儘一ぱいの生活をして居る。儂は告白する、儂は村の人にはなり切れぬ。此は儂の性分である。東京に居ても、田舎に居ても、何処までも旅《たび》の人、宿れる人、見物人なのである。然しながら生年百に満たぬ人《ひと》の生《いのち》の六年は、決して短い月日では無い。儂は其六年を已に村に過して居る。儂が村の人になり切れぬのは事実である。然し儂が少しも村を愛《あい》しないと云うのは嘘《うそ》である。ちと長い旅行でもして帰って来る姿《すがた》を見かけた近所の子供に「何処《どけ》へ往ったンだよゥ」と云われると、油然《ゆうぜん》とした嬉しさが心の底《そこ》からこみあげて来る。
 東京が大分《だいぶ》攻め寄せて来た。東京を西に距《さ》る唯三里、東京に依って生活する村だ。二百万の人の海にさす潮《しお》ひく汐《しお》の余波が村に響いて来るのは自然で
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