てくれた。
 斯くて千歳村《ちとせむら》の一年は、馬車馬の走る様《よう》に、さっさと過ぎた。今更《いまさら》の様だが、愉快は努力に、生命は希望にある。幸福は心の貧しきにある。感謝は物の乏しきにある。例令《たとえ》此《この》創業《そうぎょう》の一年が、稚気乃至多少の衒気《げんき》を帯びた浅瀬の波の深い意味もない空躁《からさわ》ぎの一年であったとするも、彼はなお彼を此生活に導いた大能の手を感謝せずには居られぬ。
 彼は生年四十にして初めて大地に脚を立てゝ人間の生活をなし始めたのである。
[#改丁]

   草葉のささやき

     二百円

 樫《かし》の実が一つぽとりと落ちた。其|幽《かすか》な響が消えぬうちに、突《つ》と入って縁先に立った者がある。小鼻《こばな》に疵痕《きずあと》の白く光った三十未満の男。駒下駄に縞物《しまもの》ずくめの小商人《こあきんど》と云う服装《なり》。眉から眼にかけて、夕立《ゆうだち》の空の様な真闇《まっくら》い顔をして居る。
「私《わたし》は是非一つ聞いていたゞきたい事があるンで」
と座に着くなり息をはずませて云った。
「私は妻《かない》に不幸な者でして……
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