するに彼等は辛《かろ》うじて大工の妾のふる巣にもぐり込んだ東京の喰いつめ者と多くの人に思われて居た。実際彼等は如何様《どんな》に威張《いば》っても、東京の喰詰者であった。但《ただ》字を書く事は重宝がられて、彼も妻もよく手紙の代筆をして、沢庵《たくわん》の二三本、小松菜の一二|把《わ》礼にもらっては、真実感謝して受けたものだ。彼はしば/\英語の教師たる可く要求された。妻は裁縫《さいほう》の師匠をやれと勧められた。自身《じしん》上州《じょうしゅう》の糸屋から此村の農家に嫁《とつ》いで来た媼《ばあ》さんは、己が経験から一方ならず新参のデモ百姓に同情し、種子をくれたり、野菜をくれたり、桑があるから養蚕《ようさん》をしろの、何の角のと親切に世話をやいた。
三
東京へはよく出た。最初一年が間は、甲州《こうしゅう》街道《かいどう》に人力車があることすら知らなかった。調布新宿間の馬車に乗るすら稀《まれ》であった。彼等が千歳村《ちとせむら》に越して間もなく、玉川電鉄は渋谷《しぶや》から玉川まで開通したが、彼等は其れすら利用することが稀であった。田舎者は田舎者らしく徒歩主義《とほしゅぎ
前へ
次へ
全684ページ中58ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング