忘れ得なかった。彼の家から西へ四里、府中町《ふちゅうまち》へ買った地所と家作の登記《とうき》に往った帰途、同伴の石山氏が彼を誘《さそ》うて調布町のもと耶蘇教信者の家に寄った。爺さんが出て来て種々雑談の末、石山氏が彼を紹介《しょうかい》して今度村の者になったと云うたら、爺さん熟々《つくづく》彼の顔を見て、田舎住居も好いが、さァ如何《どう》して暮したもんかな、役場の書記と云ったって滅多《めった》に欠員《けついん》があるじゃなし、要するに村の信者の厄介者だと云う様な事を云った。そこで彼はぐっと癪《しゃく》に障《さわ》り、斯《こ》う見えても憚りながら文字の社会では些《ちっと》は名を知られた男だ、其様な喰詰《くいつ》め者と同じには見て貰うまい、と腹の中では大《おおい》に啖呵《たんか》を切ったが、虫を殺して彼は俯《うつむ》いて居た。家が日あたりが好いので、先の大工の妾時代から遊び場所にして居た習慣から、休日には若い者や女子供が珍らしがってよく遊びに来た。妻が女児の一人に其《その》家《うち》をきいたら、小さな彼女は胸を突出し傲然《ごうぜん》として「大尽《だいじん》さんの家《うち》だよゥ」と答えた。要
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