から、園芸好きで、糞尿を扱う事は珍らしくもなかったが、村入しては好んで肥桶を担《かつ》いだ。最初はよくカラカフス無しの洋服を着て、小豆革《あずきかわ》の帯をしめた。斯革の帯は、先年神田の十文字商会で六連発の短銃を買った時手に入れた弾帯で、短銃其ものは明治三十八年の十二月日露戦役果て、満洲軍総司令部凱旋の祝砲を聞きつゝ、今後は断じて護身の武器を帯びずと心に誓って、庭石にあてゝ鉄槌でさん/″\に打破《うちこわ》してしまったが、帯だけは罪が無いとあって今に残って居るのであった。洋服にも履歴がある。そも此洋服は、明治三十六年日蔭町で七円で買った白っぽい綿セルの背広《せびろ》で、北海道にも此れで行き、富士《ふじ》で死にかけた時も此れで上り、パレスチナから露西亜《ろしあ》へも此れで往って、トルストイの家でも持参《じさん》の袷《あわせ》と此洋服を更代《こうたい》に着たものだ。西伯利亜鉄道《シベリアてつどう》の汽車の中で、此一張羅の洋服を脱いだり着たりするたびに、流石《さすが》無頓着《むとんちゃく》な同室の露西亜の大尉も技師も、眼を円《まる》く鼻の下を長くして見て居た歴史つきの代物《しろもの》である。
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