新生涯に絡《から》んで忘れ難い恩人の一人《ひとり》である。
 明治三十九年美的百姓が露西亜《ろしあ》から帰って、青山《あおやま》高樹町《たかぎちょう》に居《きょ》を定むると間《ま》もなく、ある日|銀杏返《いちょうがえ》しに白い薔薇《ばら》の花簪《はなかんざし》を插した頬《ほお》と瞼《まぶた》のぽうと紅《あか》らんだ二十前後の娘が、突然唯一人でやって来て、女中《じょちゅう》になると云う。名はとめと云って江州《ごうしゅう》彦根在《ひこねざい》の者であった。兄が東京で商売をして居るので、彼女も出京してある家に奉公中、逗子で懇意になった老人夫婦の家の女中から高樹町の家の事を聞き込み、自《みずか》ら推薦《すいせん》して案内もなく女中に来たのであった。使《つか》って見ると、少し愚《おろ》かしい点《とこ》もあるが、如何にも親切な女で、毎《いつ》も莞爾々々《にこにこ》して居る。一度泥棒が入って後、彼女は離れて独女中部屋に寝るを恐れたが、部屋に戸締《とじま》りをつけてやると、安心して寝た。その兄はシャツ、ズボン下《した》など莫大小物《めりやすもの》の卸売《おろしうり》をして居るので、彼女も少しミシンを稽
前へ 次へ
全684ページ中427ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング