里道を往っては江戸みちと彫った古い路しるべの石の立つ街道を横ぎり、樫《かし》欅《けやき》の村から麦畑、寺の門から村役場前と、廻れば一里もあるかと思われた。千歳村は以上三の字《あざ》の外、船橋《ふなばし》、廻沢《めぐりさわ》、八幡山《はちまんやま》、烏山《からすやま》、給田《きゅうでん》の五字を有ち、最後の二つは甲州街道に傍《そ》い、余は何れも街道の南北一里余の間にあり、粕谷が丁度中央で、一番戸数の多いが烏山二百余戸、一番少ないのが八幡山十九軒、次は粕谷の二十六軒、余は大抵五六十戸だと、最早《もう》そろ/\小学の高等科になる石山氏の息子《むすこ》が教えてくれた。
期日は三月一日、一月おくれで年中行事をする此村では二月一日、稲荷講《いなりこう》の当日である。礼廻りから帰った彼は、村の仲間入すべく紋付羽織に更《あらた》めて、午後石山氏に跟《つ》いて当日の会場たる下田氏の家に往った。
其家は彼の家から石山氏の宅に往く中途で、小高い堤《どて》を流るゝ品川堀《しながわぼり》と云う玉川浄水の小さな分派《わかれ》に沿うて居た。村会議員も勤むる家《うち》で、会場は蚕室《さんしつ》の階下であった。千歳
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