ちん》もつけず、更らに路を択《えら》ばず、ザブ/\泥水を渉《わた》って帰った。新宿から一里半も来た頃、真闇な藪陰《やぶかげ》で真黒な人影に行合うた。彼方はずうと寄って来て、顔をすりつける様にして彼を覗《のぞ》く。彼は肝を冷やした。
「君は誰《だれ》だ?」
先方から声をかけた。彼は住所姓名を名乗った。而して「貴君《あなた》は?」ときいた。
「刑事です。大分晩く御帰りですな」
八幡近くまで帰って来ると、提灯ともして二三人下りて来た。彼の影を見て、提灯はとまったが、透かして見て「福富さんだよ」と驚いた様な声をして行き過ぎた。此は八幡山の人々であった。先日八幡山及粕谷の若者と烏山の若者の間に喧嘩があって、怪我人なぞ出来た。其のあとがいまだにごたごたして居るのだ。
帰ると、一時過ぎて居た。
*
其後梁川君の遺文寸光録が出た。彼の名がちょい/\出て居る。彼の事を好く云うてある。総じて人は自己の影を他人に見るものだ。梁川君が彼にうつした己が影に見惚《みと》れたのも無理はない。
梁川君が遺文の中、病中唯一度母君に対してやゝ苛※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]
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