閲《けみ》して、まさに東京を去り山に入る決心をして居た時、ある夜彼は新橋停車場の雑沓《ざっとう》の中に故人を見出した。何処《どこ》ぞへ出かけるところと覚しく、茶色の中折《なかおれ》をかぶり、細巻の傘を持ち、瀟洒《さっぱり》した洋装をして居た。彼は驚いた様な顔をして居る故人を片隅《かたすみ》に引のけて、二分間の立話をした。彼は従来の疎隔《そかく》を謝し、自愛を勧め、握手して別れた。これが最始《さいし》の接近で、また最後の面会であった。
M君と彼の話は、故人の事から死生の問題に入った。心霊の交感、精神療法と、話は色々に移って往った。
彼等は久しく芝生の縁代《えんだい》で話した。M君が辞《じ》し去ったのは、夜も深《ふ》けて十二時近かった。
彼はM君を八幡下まで送って別れた。夏ながら春の様なおぼろ月、谷向うの村は朦朧《ぼんやり》とうち煙り、田圃《たんぼ》の蛙《かわず》の声も夢を誘う様なおぼろ夜である。
「それじゃ」
「失礼」
駒下駄の音も次第《しだい》に幽《かすか》になって、浴衣《ゆかた》姿《すがた》の白いM君は吸わるゝ様に靄《もや》の中に消えた。
*
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