《めりやす》の股引《ももひき》白足袋《しろたび》に高足駄をはき、彼女は洋傘《こうもり》を杖《つえ》について海松色《みるいろ》の絹天《きぬてん》の肩掛《かたかけ》をかけ、主婦に向うて、
「何卒《どうぞ》覚《おぼ》えて居て下さい、覚えて居て下さい」
と幾回も繰り返して出て往った。主人夫妻は門口に立って、影の消ゆるまで見送った。

       四

 一年程過ぎた。
 此世から消え失せたかの様に、二人の消息《しょうそく》ははたと絶えた。
「如何《どう》したろう。はがき位はよこしそうなものだな」
 主人夫妻は憶《おも》い出《だ》す毎《たび》に斯く云い合った。
 丁度《ちょうど》満一年の新嘗祭も過ぎた十二月一日の午後、珍しく滝沢の名を帯びたはがきが主人の手に落ちた。其は彼の妻の死を報ずるはがきであった。消息こそせね、夫婦は一日も粕谷の一日《いちにち》一夜《いちや》を忘れなかった、と書いてある。
 吁《ああ》彼女は死んだのか。友の妻になれと遺言して死んだ先夫の一言《いちごん》を言葉通り実行して恋に於ての勝利者たる彼等夫妻の前途は、決して百花園中《ひゃっかえんちゅう》のそゞろあるきではあるまい、と
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