その女の方で何処までも付いていて離れないんでしょう――私の方だって、ですから怒ろうたって怒られやしない。気の毒で可哀そうになったわ。――でも細君があると知れてから、随分|捫《も》んで苛《いじ》めてやった。」
人を傍に置いていて、そう言って独りで忘れられない、楽しい追憶《おもいで》に耽っているようであった。私は静《じっ》と聞いていて、馬鹿にされているような気がしたが、自分もその大学生のように想われて、そうして苛められるだけ、苛められて見たくなった。
その男は高等官になって、名古屋に行っていると言った。江馬と言って段々遠慮がなくなるにつれて、何につけ「江馬さん/\。」と言っていた。
それのみならず、大学生に馴染《なじみ》があるとか、あったとかいうのが此の女の誇で、後《あと》になっても屡《よ》く「角帽姿はまた好いんだもの。」と口に水の溜まるような調子で言い/\した。
すると、お宮は暫時《しばらく》して、フッと顔を此方《こっち》に向けて、
「あなた、本当に奥様《おくさん》は無いの?」
「あゝ」
「本当に無いの?」
「本当に無いんだよ。」
「男というものは真個《ほんとう》に可笑いよ。細君があれば、あると言って了ったら好さそうなものに此方で、『あなた、奥様があって?』と聞くと、大抵の人があっても無いというよ。」
「じゃ私も有っても無いと言っているように思われるかい?」
「何うだか分らない。」人の顔を探るように見て言った。
「僕、本当はねえ、あったんだけれど、今は無いの。」
「そうら……本当に?」女はにや/\笑いながら、油断なく私の顔を見戍《みまも》った。
「本当だとも。有ったんだけれど、別れたのさ。……薄情に別れられたのさ。……一人で気楽だよ。……同情してくれ給え! 衣類《きもの》だって、あれ、あの通り綻びだらけじゃないか。」
「それで今、その女《ひと》は何うしているの?」お宮の瞳《め》が冴えて、両頬《ほお》に少し熱を潮《さ》して来た。
「さあ、別れたッきり、自家《うち》にいるか何うしているか、行先なんか知らないさ。」
「本当に? ……何時別れたんです? ……ちゃんと分るように仰しゃい! 法学者の処にいたから、曖昧な事を言うと、すぐ弱点を抑えるから。……何うして別れたんです?」気味悪そうに聞いた。
「種々《いろいろ》一緒にいられない理由《わけ》があって別れたんだが、最早《もう》半歳も前の事さ。」
「へッ、今だってあなたその女《ひと》に会っているんでしょう。」擽《くすぐ》るように疑って言った。
「馬鹿な。別れた細君に何処に会う奴があるものかね。」
「そう……でも其の女のことは矢張し思っているでしょう。」
「そりゃ、何年か連添うた女房だもの、少しは思いもするさ。斯うしていても忘れられないこともある。けれども最早いくら思ったって仕様がないじゃないか。宮ちゃんの、その人のことだって同《おんな》じことだ。」
「……私、あなたの家《ところ》に遊びに行くわ。」
本当に遊びに来て貰いたかった。けれども今来られては都合が悪い。
「あゝ、遊びにお出で。……けれども今は一寸家の都合が悪いから、その内私家を変ろうと思っているから、そうしたら是非来ておくれ。」
私は、その時初めて、お前のお母《っか》さんの家を出ようという気が起った。自然《ひとりで》に心の移る日を待っていたらお宮を遊びに来さす為には早く他へ行きたくもなった。
そう言うと、お宮はまた少し胡散《うさん》そうに、
「都合が悪い! ……へッ、矢張しあるん[#「あるん」に傍点]だ。」と微笑《ほほえ》んだ。
「ある処《どころ》かね。あれば仕合せなんだが。」
「じゃ遊びに行く。」
「…………」
「奥様がなくって、じゃあなた何様《どん》な処にいるの?」
「年取った婆さんに御飯を炊いて貰って二人でいるんだから面白くもないじゃないか。宮ちゃんに遊びに来て貰いたいのは山々だけれど、その婆さんは私が細君と別れた時分のことから、知っているんだから、少しは私も年寄りの手前を慎まなければならぬのに、幾許《いくら》半歳経つと言ったって、宮ちゃんのような綺麗な若い女に訪ねて来られると、一寸具合が悪いからねえ。屹度変るから変ったらお出で。」
すると、「宮ちゃん/\」と、女中の低声《こごえ》がして、階段の方で急《いそが》しそうに呼んでいる。
二人は少しはっとなった。
「何うしたんだろう?」
「何うしたんだろう? ……」二三秒して、「えッ?」と女中に聞えるように言った。「一寸《ちょいと》行って見て来る。」
お宮は、そのまゝ出て行った。
四五分間して戻って来た。「此の頃、警察がやかましいんですって。戸外《そと》に変な者が、ウロ/\しているようだから何時遣って来るかも知れないから、若し来たら階下から『宮ちゃん/\。』ッて声をかけるから、そうしたら脱衣《きもの》を抱えて直ぐ降りてお出でッて。……ちゃんと隠れる処が出来ているの。……今|灯《ひ》を点して見せて貰ったら、ずうっと奥の方の物置室《ものおき》の座板の下に畳を敷いて座敷があるの……」
そう言って大して驚いてる気色《けしき》も見えぬ。また私も驚きもしなかった。
やがて廊下を隔てた隣の間でも、ドシ/\と男の足音がしたり、静かな話声がしたり、衣擦《きぬず》れの音がしたりして段々客があるらしい。
自家《うち》に帰れば猫の子もいない座敷を、手索《てさぐ》りにマッチを擦って、汚れ放題汚れた煎餅蒲団に一人柏葉餅のようになって寝ねばならぬのに斯うして電灯のついた室《へや》に、湯上りに差向いで何か食って、しかも、女を相手にして寝るのだから、私はもう一生|待合《ここ》で斯うして暮したくなった。
「…………。」私は何か言った。
廊下の足音が偶《たま》に枕に響いた。
「……誰れか来やしないか。……一寸《ちょいと》お待ちなさい。……そら誰れか其処にいるよ……」手真似で制した。警察のやかましいぐらい平気でいるかと思ったら、また存外神経質で処女《きむすめ》のように臆病な性質《ところ》もあった。
夜が更ければ、更けるほど、朝になればなっても不思議に寝顔の美しい女であった。
きぬ/″\の別れ、という言葉は、想い出されないほど前から聞いて知ってはいたが元来|堅仁《かたじん》の私は恥ずべきことか、それとも恥とすべからざることか、それが果して、何ういう心持のするものか、此歳になるまで、自分ではついぞ覚えがなかったが、その朝は生れて初めて成程これが「朝の別れ」というものかと懐かしいような残り惜しいような想いがした。
女が「じゃ切りがないから、もう帰りますよ。」と言って帰って行った後で、女中の持って来た桜湯に涸《かわ》いた咽喉を湿《うるお》して、十時を過ぎて、其家《そこ》を出た。
午前《ひるまえ》の市街《まち》は騒々しい電車や忙がしそうな人力車《くるま》や大勢の人間や、眼の廻るように動いていた。
十一月|初旬《はじめ》の日は、好く晴れていても、弱く、静かに暖かであったが、私には、それでもまだ光線が稍強過ぎるようで、脊筋に何とも言いようのない好い心地の怠《だる》さを覚えて、少しは肉体《からだ》の処々に冷たい感じをしながら、何という目的《あて》もなく、唯、も少し永く此の心持を続けていたいような気がして浮々《うかうか》と来合せた電車に乗って遊びに行きつけた新聞社に行って見た。
長田《おさだ》は旅行《たび》に出ていなかったが、上田や村田と一しきり話をして、自家《うち》に戻った。お宮が昨夜《ゆうべ》あなたの処へ遊びに行くと言った。それには自家を変らねばならぬ。変るには銭《かね》が入る。何うして銭を拵えようかと、そんなことを考えながら戻った。
それから二三日して長田の家《ところ》に遊びに行くと、長田が――よく子供が歯を出してイーということをする、丁度そのイーをしたような心持のする険しい顔を一寸して、
「此間桜木に行ったら、『此の頃|屡《よ》くいらっしゃいます。泊ったりしていらっしゃいます。』……お宮というのを呼んだと言っていた。……僕は泊ったりすることはないが、……お宮というのは何様《どん》な女《の》か、僕は知らないが、……」
その言葉が、私の胸には自分が泊らないのに、何うして泊った? 自分がまだ知らない女を何うして呼んだ? と言っているように響いた。私は苦笑しながら黙っていた。長田は言葉を統けて、
「此間《こないだ》社に来て、昨夜《ゆうべ》耽溺をして来た、と言っていたと聞いたから、はあ此奴《こいつ》は屹度桜木に行ったなと思ったから、直ぐ行って聞いて見てやった。」笑いながら嘲弄するように言った。
私は、返事の仕様がないような気がして、
「うむ……お宮というんだが、君は知らないのか……。」と下手《したで》に出た。
他の女ならば何でもないが、此のお宮とのことだけは誰れにも知られたくなかった。尤も平常《ふだん》から聞いて知っている長田の遊び振りでは或は夙《とっく》にお宮という女のいることは知っているんだが、長田のこととてつい何でもなく通り過ぎて了ったのかとも思っていた。……初めてお宮に会った時にもう其様《そん》なことが胸に浮んでいた。それが今、長田の言うのを聞けば、長田は知っていなかった。知っていなかったとすれば尚おのこと、知られたくなかったのだが、既《も》う斯う突き止められた上に、悪戯《いたずら》で岡妬《おかや》きの強い人間と来ているから、此の形勢では早晩《いずれ》何とか為《せ》ずにはいまい。もしそうされたって「売り物、買い物」それを差止める権利は毛頭無い。また多寡がああいう商売の女を長田と張合ったとあっては、自分でも野暮臭くって厭だ。もし他人《ひと》に聞かれでもすると一層|外聞《ざま》が悪い。此処は一つ観念の眼を瞑《ねむ》って、長田の心で、なろうようにならして置くより他はないと思った。
が、そうは思ったものの、自分の今の場合、折角探しあてた宝をむざ/\他人に遊ばれるのは身を斬られるように痛《つら》い。と言って、「後生だ。何うもしないで置いてくれ。」と口に出して頼まれもしないし、頼めば、長田のことだから、一層悪く出て悪戯をしながら、黙っているくらいのことだ。
と、私はお宮ゆえに種々《いろいろ》心を砕きながら、自家《うち》に戻った。此の心をお宮に知らす術《すべ》はないかと思った。
取留めもなく、唯自家で沈み込んでいた時分には、何うかして心の間切《まぎ》れるように好きな女でも見付かったならば、意気も揚るであろう。そうしたら自然に読み書きをする気にもなるだろう。読み書きをするのが、何うでも自分の職業とあれば、それを勉強せねば身が立たぬ、と思っていた。すると女は兎も角も見付かった。けれども見付かると同時に、此度はまた新らしい不安心が湧いて来た。しばらく寂しく沈んでいた心が一方に向って強く動き出したと思ったら、それが楽しいながらも苦しくなって来た。
女からは初めて、心を惹くような、悲しんで訴えるような、気取った手紙を寄越した。私の心は何も彼も忘れて了って、唯|其方《そっち》の方に迷うていた。
銭がなければ女の顔を見ることが出来ない。が、その銭を拵える心の努力《はげみ》は決して容易ではなかった。――辛抱して銭を拵える間が待たれなかったのだ。
そうする内に箱根から荷物が届いた。長く彼方《あちら》にいるつもりであったから、その中には、私に取って何よりも大切な書籍《ほん》もあった。之ばかりは何様《どん》なことがあっても売るまいと思っていたが、お宮の顔を見る為に、それも売って惜しくないようになった。
厭味のない紺青《こんじょう》の、サンタヤナのライフ・オブ・リーゾンは五冊揃っていた。此の夏それを丸善から買って抱えて帰る時には、電車の中でも紙包《つつみ》を披《ひら》いて見た、オリーブ表紙のサイモンヅの「伊太利《イタリー》紀行」の三冊は、十幾年来憧れていて、それも此の春漸く手に入ったものであった。座右に放さなかった「アミイルの日記」と、サイモンヅの訳したベンベニュトオ・チェリニーの自叙伝とは
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