、……判りませんわ。」
「そう……判らないだろう。まあ何かする人だろう。」
「でも気になるわ。」
「そう気にしなくっても心配ない。これでも悪いことをする人間じゃないから。」
「そうじゃないけれど……本当言って御覧なさい。」
「これでも学者見たようなものだ。」
「学者! ……何学者? ……私、学者は好き。」
 本当に学者が好きらしゅう聞くから、
「そうか。お宮さん学者が好きか。此の土地にゃ、お客の好みに叶うように、頭だけ束髪の外見《みかけ》だけのハイカラが多いんだが、お宮さんは、じゃ何処か学校にでも行っていたことでもあるの?」
 学生とか、ハイカラ女を好む客などに対しては、その客の気風を察した上で、女学生上りを看板にするのが多い。――それも商売をしていれば無理の無いことだ。――その女も果して女学校に行って居ったか、何うかは遂には分らなかったが所謂学者が好きということは、後になるに従って本当になって来た。
 斯う言って先方《さき》の意に投ずるように聞くと、
「本郷の××女学校に二年まで行っていましたけれど、都合があって廃《よ》したんです。」と言うから、じゃ何うして斯様《こん》な処に来ている……と訊いたら、斯うしてお母《っか》さんを養っていると言う。お母さんは何処にいるんだ? と聞くと、下谷にいて、他家《よそ》の間を借りて、裁縫《しごと》をしているんです、と言う。
 私は、全然《まるまる》直ぐそれを本当とは思わなかったけれど、女の口に乗って、紙屋治兵衛の小春の「私一人を頼みの母様《ははさま》。南辺《みなみへん》の賃仕事して裏家住み……」という文句を思い起して、お宮の母親のことを本当と思いたかった。……否《いや》、或は本当と思込んだのかも知れぬ。
 お前が斯様なことをしてお母さんを養わなくってもほかに養う人はないのか? と訊くと、姉が一人あるんですけれど、それは深川のある会社に勤める人に嫁《かたづ》いていて先方《さき》に人数が多いから、お母さんは私が養わなければならぬ、としおらしく言う。
「そうか。……じゃ宮という名は、小説で名高い名だが、宮ちゃん、君は小説のお宮を知っているかね?」
「えゝ、あの貫一のお宮でしょう? 知っています。」
「そうか。まあ彼様《あん》なものを読む学者だ。私は。」
「じゃあなたは文学者? 小説家?」
「まあ其処等あたりと思っていれば可い。」
「私もそうかと思っていましたわ。……私、文学者とか法学者だとか、そんな人が好き。あなたの名は何というんです?」
「雪岡というんだ。」
「雪岡さん。」と、独り飲込むように言っていた。
「宮ちゃん、年は幾歳《いくつ》?」
「十九。」
 十九にしては、まだ二つ三つも若く見えるような、派手な薄|紅葉《もみじ》色の、シッポウ形の友禅縮緬と水色繻子の狭い腹合せ帯を其処に解き棄てていたのが、未だに、私は眼に残っている。
 暫時《しばらく》そんな話をしていた。

 それから抱占めた手を、長いこと緩めなかった。痙攣が驚くばかりに何時までも続いていた。私はその時は、本当に嬉しくって、腹の中で笑い/\静《じっ》として、先方に自分の全身を任していた。漸《やっ》と私を許してから三四分間経って此度は俯伏しになって、静《そっ》と他《ひと》の枕の上に、顔を以て来て載せて、半ば夢中のようになって、苦しい呼吸《いき》をしていた。私は、そうしている束髪の何とも言えない、後部《うしろ》の、少し潰れたような黒々とした形を引入れられるように見入っていた。
 そうして長襦袢と肌襦袢との襟が小さい頸の形に円く二つ重なっている処が堪らなくなて、そっと指先で突く真似をして、
「おい何うかしたの? ……何処か悪いの?」と言って、掌で背《せなか》をサアッ/\と撫でてやった。
 すると、女は、
「いえ。」と、軽く頭振《かぶり》を掉《ふ》って、口を圧されたような疲れた声を出して、「極りが悪いから……」と潰したように言い足した。そうして二分間ほどして魂魄《こころ》の脱けたものゝように、小震いをさせながら、揺々《ゆらゆら》と、半分眼を瞑《ねむ》った顔を上げて、それを此方に向けて、頬を擦り付けるようにして、他《ひと》の口の近くまで自分の口を、自然に寄せて来た。そうして復《ま》た枕に顔を斜に伏せた。
 私は、最初《はじめ》から斯様な嬉しい目に逢ったのは、生れて初めてであった。
 水の中を泳いでいる魚ではあるが、私は急に、そのまゝにして置くのが惜しいような気がして来て、
「宮ちゃん。君には、もう好い情人《ひと》が幾人《いくたり》もあるんだろう。」と言って見た。
 すると、お宮は、眼を瞑《ねむ》った顔を口元だけ微笑《え》みながら、
「そんなに他人《ひと》の性格なんか直ぐ分るもんですか。」甘えるように言った。私は性格という言葉を使ったのに、また少し興を催して、
「性格! ……性格なんて、君は面白い言葉を知っているねえ。」と世辞を言った。――兎に角漢語をよく用いる女だった。
 そうして私は、唯柔かい可愛らしい精神《こころ》になって、蒲団を畳む手伝いまでしてやった。
 他の室《へや》に戻ってから、
「また来るよ。君の家は何という家?」
「家は沢村といえば分ります。……あゝ、それから電話もあります。電話は浪花のね三四の十二でしょう。それに五つ多くなって、三四十七、三千四百十七番と覚えていれば好いんです。」と立ちながら言って疲れて、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》の辺《ところ》を蒼くして帰って行った。
 私は、何だか俄かに枯木に芽が吹いて来たような心持がし出して、――忘れもせぬ十一月の七日の雨のバラ/\と降っていた晩であったが、私も一足後から其家《そこ》を出て番傘を下げながら――不思議なものだ、その時ふと傘の破れているのが、気になったよ。種々《いろん》な屋台店の幾個《いくつ》も並んでいる人形町の通りに出た。湿《しっ》とりとした小春らしい夜であったが、私は自然《ひとりで》にふい/\口浄瑠璃を唸りたいような気になって、すしを摘もうか、やきとりにしようか、と考えながら頭でのれん[#「のれん」に傍点]を分けて露店の前に立った。
 その銭《かね》が入ったら――例の箱根から酷《きび》しくも言って来るし、自分でも是非そのまゝにしている荷物を取って来たり、勘定の仕残りだのして二三日遊んで来ようと思っていたのだが、私はもう箱根に行くのは厭になった。で、種々《いろいろ》考えて見て箱根へは為替で銭を送ることにして、明日の晩早くからまた行った。そうして此度は泊った。――斯ういう処へ来て泊るなんということは、お前がよく知っている、私には殆ど無いと言って可い。
 続けて行ったものだから、お宮は、入って来て私と見ると、「さては……」とでも思ったか「いらッしゃい。」と離れた処で尋常に挨拶をして、此度上げた顔を見ると嬉しさを、キュッと紅《べに》をさした脣で小さく食い締めて、誰れが来ているのか、といったような風に空とぼけて、眼を遠くの壁に遣りながら、少し、頸を斜《はす》にして、黙っていた。その顔は今に忘れることが出来ない。好い色に白い、意地の強そうな顔であった。二十歳《はたち》頃の女の意地の強そうな顔だから、私には唯美しいと見えた。
 私は可笑くなって此方《こっち》も暫く黙っていた。けれども、私はそんなにして黙っているのが嫌いだから、
「そんな風をしないでもっと此方《こっち》においで。」と言った。
 待っている間、机の上に置いてあった硯箱を明けて、巻紙に徒《いたず》ら書きをしていた処であったから机の向《むこう》に来ると、
「宮ちゃん、之れに字を書いて御覧。」
「えゝ書きます。何を?」
「何とでも可いから。」
「何かあなたそう言って下さい。」
「私が言わないったって、君が考えて何か書いたら可いだろう。」
「でもあなた言って下さい。」
「じゃ宮とでも何とでも。」
「……私書けない。」
「書けないことはなかろう、書いてごらん。」
「あなた神経質ねえ。私そんな神経質の人嫌い!」
「…………。」
「分っているから、……あなたのお考えは。あなた私に字を書かして見て何うするつもりか、ちゃんと分っているわ。ですから、後で手紙を上げますよ。あゝ私あなたに済まないことをしたの。名刺を貰ったのを、つい無くして了った。けれど住所《ところ》はちゃんと憶えています。……××区××町××番地雪岡京太郎というんでしょう。」
 斯様《こん》なことを言った。私に字を書かして見て何うするつもりかあなたの心は分っています、なんて自惚《うぬぼれ》も強い女だった。
 その晩、待合《うち》の湯に入った。「お前、前《さき》入っておいで。」と言って置いて可い加減な時分に後から行った。緋縮緬の長い蹴出しであった。
 尚お他の室《へや》に行ってから、
「宮ちゃん、お前斯ういう処へ来る前に何処か嫁《かたづ》いていたことでもあるの?」
 と、具合よく聞いて見た。
「えゝ、一度行っていたことがあるの。」と問いに応ずるように返事をした。
 日毎、夜毎に種々《いろん》な男に会う女と知りながら、また何れ前世のあることとは察していながら、私は自分で勝手に尋ねて置いて、それに就いてした返事を聞いて少し嫉《ねた》ましくなって来た。
「何ういう人の処へ行っていたの?」
「大学生の処へ行っていたの。……卒業前の法科大学生の処へ行っていたんです。」
 私は腹の中で、「へッ! 甘《うま》いことを言っている。成程本郷の女学校に行っていた、というから、もしそうだとすれば、何うせ野合者《くっつきもの》だ。そうでなければ生計《くら》しかねて、母子《おやこ》相談での内職か。」と思ったが、何処かそう思わせない品の高い処もある。
「へえ。大学生! 大学生とは好い人の処へ行っていたものだねえ。どういうような理由《わけ》から、それがまた斯様な処へ来るようになったの?」
「行って見たら他に細君があったの。」
「他に細君があった! それはまた非道《ひど》い処へ行ったものだねえ。欺されたの?」大学生には、なか/\女たらしがいる、また女の方で随分たらされもするから、私は、或は本当かとも思った。
「えゝ。」と問うように返事をした。
「だって、公然《おもてむき》、仲に立って世話でもする人はなかったの? お母《っか》さんが付いて居ながら、大事な娘の身で、そんな、もう細君のある男の処へ行くなんて。」
「そりゃ、その時は口を利く人はあったの。ですけれど此方《こっち》がお母さんと二人きりだったから甘く皆《みん》なに欺されたの。」
 私は、女が口から出任せに※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]八百を言っていると思いながら、聞いていれば、聞いているほど、段々|先方《さき》の言うことが真実《ほんとう》のようにも思われて来た。そうして憐れな女、母子《おやこ》の為に、話の大学生が憎いような、また羨ましいような気がした。
「ひどい大学生だねえ。お母さんが――さぞ腹を立てたろう。」
「そりゃ怒りましたさ。」
「無理もない、ねえ。……が一体|如何《どん》な人間だった? 本当の名を言って御覧。」
 女は枕に顔を伏せながら、それには答えず、「はあ……」と、さも術なそうな深い太息《ためいき》をして、「だから、私、男はもう厭!」傍《あたり》を構わず思い入ったように言った。「私もその人は好きであったし、その人も私が好きであったんですけれど、細君があるから、何うすることも出来ないの。……温順《おとな》しい、それは深切な人なんですけれど、男というものは、ああ見えても皆な道楽をするものですかねえ。……下宿屋の娘か何かと夫婦《いっしょ》になって、それにもう児があるんですもの。」
「フム。……じゃ別れる時には二人とも泣いたろう。」
「えゝ、そりゃ泣いたわ。」女は悲しい甘い涙を憶い起したような少し浮いた声を出した。
「自分でも私はお前の方が好いんだけれど、一時の無分別から、もう児まで出来ているから、何うすることも出来ない、と言って男泣きに泣いて、私の手を取って散々あやまるんですもの。――
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