て催促してもなか/\職人を寄越さない。寒いから障子を入れようと思えば、どれも破れている。それでも入れようと思って種々《いろいろ》にして見たが、建て付けが悪くなって何《ど》れ一つ満足なのが無い。
私はもう「えゝ何うなりとなれ!」と、パタリ/\雨滴《あまだれ》の落ちる音を聞きながら、障子もしめない座敷に静《じっ》として、何を為ようでもなく、何を考えようでもなく、四時間も五時間も唯|呆然《ぼんやり》となって坐ったなり日を暮すことがあった。
何日《いつ》であったか寝床を出て鉢前の処の雨戸を繰ると、あの真正面《まとも》に北を受けた縁側に落葉交りの雨が顔をも出されないほど吹付けている。それでも私は寝巻の濡れるのをも忘れて、其処に立ったまゝ凝乎《じっ》と、向《むこう》の方を眺めると、雨の中に遠くに久世山の高台が見える。そこらは私には何時までも忘れることの出来ぬ処だ。それから左の方に銀杏《いちょう》の樹が高く見える。それがつい四五日《しごんち》気の付かなかった間に黄色い葉が見違えるばかりにまばらに痩せている。私達はその下にも住んでいたことがあったのだ。
そんなことを思っては、私は方々、目的《あて》もなく歩き廻った。天気が好ければよくって戸外《そと》に出るし、雨が降れば降って家内《うち》にじっとしていられないで出て歩いた。破れた傘を翳《さ》して出歩いた。
そうしてお前と一緒に借りていた家は、古いのから古いのから見て廻った。けれども何《ど》の家の前に立って見たって、皆《みん》な知らぬ人が住んでいる。中には取払われて、以前《まえ》の跡形もない家もあった。
でも九月中ぐらいは、若しかお前のいる気配はせぬかと雨が降っていれば、傘で姿が隠せるから、雨の降る日を待って、柳町の家の前を行ったり来たりして見た。
家内《うち》にいる時は、もう書籍《ほん》なんか読む気にはなれない。大抵猫と遊んでいた。あの猫が面白い猫で、あれと追駈《おっかけ》ッこをして見たり、樹に逐い登らして、それを竿でつゝいたり、弱った秋蝉《ひぐらし》を捕ってやったり、ほうせん花の実《みの》って弾《はじ》けるのを自分でも面白くって、むしって見たり、それを打《ぶっ》つけて吃驚《びっくり》させて見たり、そんなことばかりしていた。処がその猫も、一度二日も続いて土砂降りのした前の晩、些《ちょっ》との間《ま》に何処へ行ったか、いなくなって了った。お母《っか》さんと二人で種々《いろいろ》探して見たが遂に分らなかった。
そんな寂しい思いをしているからって、これが他の事と違って他人《ひと》に話の出来ることじゃなし、また誰れにも話したくなかった。唯独りの心に閉じ籠って思い耽っていた。けれどもあの矢来の婆さんの家へは始終《しょっちゅう》行っていた。後には「また想い遣りですか。……あなたが、あんまりお雪さんを虐《いじ》めたから。……またあなたもみっちりお働《かせ》ぎなさい。そうしたらお雪さんが、此度は向から頭を下げて謝《あやま》って来るから。……」などと言って笑いながら話すこともあったが、あの婆《ひと》は、丁度お前のお母さんと違って口の上手な人でもあるし、また若い時から随分種々な目にも会っている女だから、
「本当にお雪さんの気の強いのにも呆れる。……私だって、あゝして四十年連れ添うた老爺《じい》さまと別れは別れたが、あゝ今頃は何うしているだろうかと思って時々呼び寄せては、私が状袋を張ったお銭《あし》で好きな酒の一口も飲まして、小遣いを遣って帰すんです。……私には到底《とても》お雪さんの真似は出来ない。……思い切りの好い女《ひと》だ。それを思うと雪岡さん、私はあなたがお気の毒になりますよ……」
と言って、襦袢の袖口で眼を拭いてくれるから、私のことと婆さんのこととは理由《わけ》が全然《すっかり》違っているとは知っていながら、
「ナニお雪の奴、そんな人間であるもんですか。……それに最早《もう》、何《ど》うも嫁《かたづ》いているらしい。屹度それに違いない。」と言うと、婆さんは此度は思わせ振りに笑いながら、
「へ……奴なんて、まあ大層お雪さんが憎いと思われますね。まさか其様《そん》なことはないでしょう。……私には分らないが、……お雪さんだって、あれであなたの事は色々と思っているんですよ……。あの自家《うち》の押入れに預かってある茶碗なんか御覧なさいな。壊れないように丹念に一つ一つ紙で包んで仕舞ってある。矢張しまたあなたと所帯を持つ下心があるからだ。……あんなに細かいことまでしゃん/\とよく気の利く人はありませんよ。」と、斯う言い/\した。
私は、私とお前との間は、私とお前とが誰れよりもよく知っていると知っていたから婆さんがそんなことを言ったって決して本当にはしやしない。随分度々、お前には引越の手数を掛けたものだが、その度毎に、茶碗だって何だって丁寧に始末をしたのは、私も知っている――尤も後《あと》になっては、段々お前も、「もう茶碗なんか、丁寧に包まない。」と言い出した。それも私はよく知っている。また其れがいよ/\別れねばならぬことになって、一層丁寧に、私の所帯道具《もちもの》の始末をしてくれたのも知っている。
それでいて、私は柳町の人達よりも一層深い事情《わけ》を知らぬ婆さんが、そう言ってくれるのを自分でも気安めだ、と承知しながら、聞いているのが何よりも楽みであった。私は寄席《よせ》にでも行くようなつもりで、何《なん》か買って懐中《ふところ》に入れては婆さんの六十何年の人情の節を付けた調子で「お雪さんだって、あれであなたのことは思っているんですよ。」を聞きに行った。
そうしながら心は種々《いろいろ》に迷うた。何うせ他へ行かねばならぬのだから家を持とうかと思って探しにも行った。出歩きながら眼に着く貸家《うち》には入っても見た。が、婆さんを置くにしても、小女《こおんな》を置くにしても私の性分として矢張し自分の心を使わねばならぬ。それに敷金なんかは出来ようがない。少し纏まった銭《かね》の取れる書き物なんかする気には何うしてもなれない。それなら何うしようというのではないが、唯何にでも魂魄《こころ》が奪《と》られ易くなっているから、道を歩きながら、フト眼に留った見知らぬ女があると、浮々《うかうか》と何処までも其の後を追うても見た。
長く男一人でいれば、女性《おんな》も欲しくなるから、矢張し遊びにも行った。そうかと言って銭が無いのだから、好くって面白い処には行けない。それゆえ銭の入らない珍らしい処を珍らしい処をと漁って歩いた。なろうならば、何《なんに》もしたくないのだから、家賃とか米代とか、お母《っか》さんに酷《きび》しく言われるものは、拠《よんどころ》なく書き物をして五円、八円取って来たが、其様《そん》な処へ遊びに行く銭は、「あゝ行きたい。」と思えば段々段々と大切にしている書籍《ほん》を凝乎《じっ》と、披《ひら》いて見たり、捻《ひねく》って見たりして、「あゝこれを売ろうか遊びに行こうか。」と思案をし尽して、最後《しまい》にはさて何うしても売って遊びに行った。矢来の婆さんの処にも度々古本屋を連れ込んだ。そうすれば、でも二三日は少しは心が落着いた。
その時分のことだろう。居先きは明さないが、一度お前が後始末の用ながらに婆さんの処へ寄って、私の本箱を明けて見たり、抽斗《ひきだし》を引出して見たりして、
「まあ本当に本も大方売って了っている。あの人は何日《いつ》まで、あゝなんだろう。」と言って、それから私の夜具を戸棚から取出して、黴《かび》を払って、縁側の日の当る処に乾して、婆さんに晩に取入れてくれるように頼んで行ったことをも聞いた。
まあそういうようにして、ちょび/\書籍を売っては、銭《かね》を拵えて遊びにも行った。けれども、それでも矢張し物足りなくって、私の足は一処《ひとところ》にとまらなかった。唯女を買っただけでは気の済む訳がないのだ。私には一人楽みが出来なければ寂しいのも間切《まぎ》れない。
処がそうしている内に、遂々《とうとう》一人の女に出会《でっくわ》した。
それが何ういう種類の女であるか、商売人ではあるが、芸者ではない、といえばお前には判断出来よう。一口に芸者でないと言ったって――笑っては可けない。――そう馬鹿には出来ないよ。遊びようによっては随分銭も掛かる。加之《それに》女だって銘々|性格《たち》があるから、芸者だから面白いのばかしとは限らない。
その時は、多少《いくらか》纏まった銭が骨折れずに入った時であったから、何時もちょび/\本を売っては可笑《おかし》な処ばかしを彷徨《うろつ》いていたが、今日は少し気楽な贅沢が為て見たくなって、一度|長田《おさだ》の友達というので行った待合に行って、その時知った女《の》を呼んだ。そうするとそれがいなくって、他《ほか》な女《の》が来た。それが初め入って来て挨拶をした時にちらと見たのでは、それほどとも思わなかったが、別の間《ま》に入ってからよく見ると些《ちょっ》と男好きのする女だ。――お前が知っている通り私はよく斯様《こん》なことに気が付いて困るんだが、――脱いだ着物を、一寸触って見ると、着物も、羽織も、ゴリ/\するような好いお召の新らしいのを着ている。此の社会のことには私も大抵目が利いているから、それを見て直ぐ「此女《これ》は、なか/\売れる女だな。」と思った。
よく似合った極くハイカラな束髪に結って小肥な、色の白い、肌理《きめ》の細かい、それでいて血気《ちのけ》のある女で、――これは段々|後《あと》になって分ったことだが、――気分もよく変ったが、顔が始終《しょっちゅう》変る女だった。――心もち平面《ひらおもて》の、鼻が少し低いが私の好きな口の小さい――尤も笑うと少し崩れるが、――眼も平常《いつも》はそう好くなかった。でもそう馬鹿に濃くなくって、柔か味のある眉毛の恰好から額にかけて、何処か気高いような処があって、泣くか何うかして憂いに沈んだ時に一寸々々《ちょいちょい》品の好い顔をして見せた。そんな時には顔が小く見えて、眼もしおらしい眼になった。後には種々《いろん》なことから自暴酒を飲んだらしかったが、酒を飲むと溜らない大きな顔になって、三つ四つも古《ふ》けて見えた。私も「どうして斯様な女が、そう好いのだろう?」と少し自分でも不思議になって、終《しまい》には浅間しく思うことさえもあった。肉体《からだ》も、厚味のある、幅の狭い、そう大きくなくって、私とはつりあいが取れていた。
で、その女をよく見ると、「あゝ斯ういう女がいたか。」と思った。それが、その女が私の気に染み付いたそも/\だった。そうすると、私の心は最早《もう》今までと違って何となく、自然《ひとりで》に優《やさ》あしくなった。
静《じっ》と女の指――その指がまた可愛い指であった、指輪も好いのをはめていた――を握ったり、もんだりしながら、
「君は大変綺麗な手をしているねえ。そうして斯う見た処、こんな社会に身を落すような人柄でもなさそうだ。それには何れ種々《いろん》な理由《わけ》もあるのだろうが出来ることなら、少しも早く斯様な商売は止して堅気になった方が好いよ。君は何となしまだ此の社会の灰汁《あく》が骨まで浸込んでいないようだ。惜しいものだ。」
人間というものは勝手なものだ。斯様な境涯に身を置く人に同情があるならば、私は何《ど》の女に向っても、同じことを言う理由《はず》だが、私は其の女にだけそれを言った。そう言うと、女は指を私に任せながら、黙って聞いていた。
「名は何というの?」
「宮。」
「それが本当の名?」
「えゝ本当は下田しまというんですけれど、此処では宮と言っているんです。」
「宮とは可愛い名だね、え。……お宮さん。」
「えッ。」
「私はお前が気に入ったよ。」
「そうオ……あなたは何をなさる方?」
「さあ何をする人間のように思われるかね。言い当てゝ御覧。」
そういうと、女は、しお/\した眼で、まじ/\と私の顔を見ながら、
「そう……学生じゃなし、商人じゃなし、会社員じゃなし
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