有楽座で今晩丁度呂昇の「新口村《にのくちむら》」がある。これは好いものがある。これなりと聞きに行こう、と、八時を過ぎてから出掛けた。
そういうようにして、お宮に夢中になっていたから、勝手に付けては、殆ど毎日のように行っていた矢来の婆さんの家《ところ》へは此の十日ばかりというもの、パッタリと忘れたように、足踏みしなかったが、お宮がいなくなって見ると、また矢張り婆さんの家が恋しくなって、久振りに行って見た。婆さんは何時も根好く状袋を張っていたが、例《いつも》の優しい声で、
「おや、雪岡さん、何うなさいました? 此の頃はチットもお顔をお見せなさいませんなあ。何処かお加減でも悪いのかと思って、おばさんは心配していましたよ。」と言いながら、眼鏡越しに私を見戍って、「雪岡さん、頭髪《かみ》なんかつんで、大層綺麗におめかしして。」と、尚お私の方を見て微笑《わら》っている。
「えゝ暫時御無沙汰をしていました。」
と言っていると、
「雪岡さん。あなた既《も》う好い情婦《おんな》が出来たんですってねえ。大層早く拵えてねえ。」と、あの婆さんのことだから、言葉に情愛を付けて面白く言う。私は、ハテ不思議だ、
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