てくれた。私はそれを、悠然と着込んで待っていたのだが、用事《よう》のある者は、皆な、それぞれ忙しそうにしている時分に、日の射している中を、昨夜に変る、今朝の此の姿は、色男の器量を瞬く間に下げて了ったようで、音も響も耳に入らず、眼に付くものも眼に入らず、消え入るように、勢《せい》も力もなく電車に乗ったが、私は切符を買うのも気が進まなかった。
喜久井町の自家《うち》に戻ると、もう彼れ是れ二時を過ぎていた。さて詰らなさそうに戻って見れば、家の中は今更に、水の退《ひ》いた跡のようで、何の気《け》もしない。何処か、其処らに執《と》り着く物でもいるのではないかと思われるように、またぞっと寂しさが募る。私は、落ちるように机の前に尻を置いて、「ほうッ」と、一つ太息を吐いて、見るともなく眼を遣ると、もう幾日《いくか》も/\形付けをせぬ机の上は、塵埃《ほこり》だらけな種々《いろん》なものが、重なり放題重なって、何処から手の付けようもない。それを見ると、また続けて太息が出る。「あゝ!」と思いながら、脇を向いて、此度は、背を凹ますように捻じまげて何気なく、奥の六畳の方を振返ると、あの薄暗い壁際に、矢張りお前の箪笥がある。其れには平常《いつも》の通り、用箪笥だの、針箱などが重ねてあって、その上には、何時からか長いこと、桃色|甲斐絹《かいき》の裏の付いた糸織の、古うい前掛に包んだ火熨斗《ひのし》が吊してある。「あの前掛は大方十年も前に締めたのであろう!」と思いながら私は、あの暗い天井の隅々を、一遍ぐるりッと見廻した。そうして、また箪笥の方に気が付くと、あの抽斗《ひきだし》も、下の方の、お前の僅ばかりの物で、重《おも》なるものの入っていそうな処は、最初《はじめ》から錠を下してあったが、でも上の二つは、――私の物も少しは入っているし、――何か知ら、種々《いろん》なものがあって、錠も下さないであったが、婆さんがしたのか、誰れがしたのか、何時の間にかお前の物は、余処々々《よそよそ》しく、他へ入れ換えて了って、今では唯上《たった》の一つが、抽《ぬ》き差し出来るだけで、それには私の単衣《ひとえ》が二三枚あるばかりだ。……「一体何処に何うしているんだろう?」と、また暫時《しばら》く其様《そん》なことを思い沈んでいたが、……お宮も何処かへ行って了うと、言う。加之《それに》今朝のことを思い出せば、遠く離れた此
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