。
「えゝ、ナニ。そりゃそうですとも。私の方が済まないんです。私は今まで斯様《こん》な処で借りを拵えた覚えがないもんですから、それが極りが悪いんです。」と、心の千分の一を言葉に出して恥辱を自分で間切らした。
「あれ! 極りが悪いなんて。些ともそんな御心配はありませんわ。ナニ、斯様な失礼なことを申すのじゃございませんのですけれどねえ。」と、少し低声《こごえ》になった真似をして、「帳場が、また悪く八《や》ヶ間敷《まし》いんですから、私なんか全く困るんですよ。……時々斯うして、お客様に、女中がお気の毒な目をお掛け申して。」
「全く貴女《あんた》方にはお気の毒ですよ。……いや、何うも長居をして済みませんでした。」と、私はそんなことを言いながらも、
「あの女は、もういなくなるそうですねえ。……自分じゃ、つい此の間出たばかりだ、と言っていたが、そんなことはないでしょう。」と聞くと、
「えゝ居なくなるなんて、ことは、まだ聞きませんが、随分前からですよ。此度戻って来たのは、つい此間ですけれど、初めて出てから、もう余程になりますよ。」
と、言う。私は「彼女《あいつ》め! 何処まで※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]を吐《つ》くか。」と思って、ます/\心に描《か》いた女の箔が褪《さ》めた思いがした。
私は、あの古い外套《とんび》を形《かた》に置いて、桜木の入口を出たが、それでも、其れも着ていれば目に立たぬが、下には、あの、もう袖口も何処も切れた、剥げちょろけの古い米沢《よねざわ》琉球の羽織に、着物は例の、焼けて焦茶色になった秩父銘仙の綿入れを着て、堅く腕組みをしながら玄関を下りた時の心持は、吾れながら、自分の見下げ果てた状態《ざま》[#「状態」は底本では「状熊」]が、歴々《ありあり》と眼に映るようで、思い做しばかりではない、女中の「左様なら! どうぞお近い内に!」という送り出す声は、背後《うしろ》から冷水を浴せ掛けられているようであった。
昨夜《ゆうべ》は、お宮の来るのが、遅いので、女中が気にして時々顔を出しては、「……いえ。あの娘《こ》のいる家は、恐ろしい慾張りなもんですから、一寸でも時間があると、御座敷へ出さすものですから、それで斯う遅くなるのです。……本当にお気の毒さまねえ。でも、もう追付け参りましょうから。」と詫びながら柔かいお召のどてらなどを持って来て貸し
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