》で、「私、雪岡ですが、宮ちゃんいますか。」と、言いながら、愛想に「敷島」を一つ買った。「あゝ、そうですか。じゃ一寸お待ちなさい!」と、次の間に入って行ったが、また出て来て、「宮ちゃん、其方《そっち》の戸外の方から行きますから。」と、密々《ひそひそ》と言う。
 私は何処から出て来るのだろう? と思って、戸外に突立っていると、直ぐ壁隣の洋食屋の先きの、廂合《ひあわ》いのような薄闇《うすくらが》りの中から、ふいと、真白に塗った顔を出して、お宮が、
「ほゝ、あはゝゝゝ。……雪岡さん?」と懐かしそうに言う。
 変な処から出て来たと思いながら、「おや! 其様な処から!」と言いながら、傍に寄って行くと、「あはゝゝゝ暫くねえ! 何うしていて?」と、向からも寄り添うて来る。
 其処《そこら》の火灯《あかり》で、夜眼にも、今宵は、紅をさした脣をだらしなく開けて、此方を仰《あおの》くようにして笑っているのが分る、私は外套《とんび》の胸を、女の胸に押付けるようにして、
「何うしていたかッて? ……電話で話した通りじゃないかッ……人に入らぬ心配さして!」
 女は「あはゝゝゝ」と笑ってばかしいる。
「おい! 菊水というのは何処だい?」
「あなたあんなに言っても分らないの? 直ぐ其処を突き当って、一寸右に向くと、左手に狭い横町があるから、それを入って行くと直き分ってよ。……その横町の入口に、幾個《いくつ》も軒灯が出ているから、その内に菊水と書いたのもありますよ。よく目を明けて御覧なさい! ……先刻《さっき》、私、お場から帰りに寄って、あなたが来るから、座敷を空けて置くように、よくそう言って置いたから……二畳の小さい好い室《へや》があるから、早く其室へ行って待っていらっしゃい。私、直ぐ後から行くから。」と嬉々《いそいそ》としている。
「そうか。じゃ直ぐお出で! ……畜生! 直ぐ来ないと承知しないぞッ!」と、私は一つ睨んで置いて、菊水に行った。
 お宮は直ぐ後から来て、今晩はまだ早いから、何処か其処らの寄席《よせ》にでも行きましょう、という。それは好かろうと、菊水の老婢《ばあさん》を連れて、薬師の宮松に呂清を聴きに行った。
 私は、もうぐっと色男になったつもりになって、蟇口をお宮に渡して了って、二階の先きの方に上って、二人を前に坐らせて、自分はその背後《うしろ》に横になって、心を遊ばせていた。
 
前へ 次へ
全59ページ中53ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング