員で、私は廣い庭を隔つた遠くの離家に、東京の某中等學校の校長なる老紳士と室を隣して起臥してゐたが、やがてその老紳士も歸つてゆき、ほかの部屋も段々明いてきたので、私は受持ちの女中が寂しがるのを察して本館に近い別館の一室に移つた。其處は今までよりも一層心の落着くところであつた。長い夏の間東京にゐて極度に疲勞してゐた私の神經衰弱もそこにゐる間にだん/\元氣を囘復して來た。始終不眠症に惱まされてゐたのが、山上の空氣の清澄なると適度の散歩と温泉の效果とのため熟睡を得られるやうになつた。大きな建物の長い廊下を幾曲りかした果ての座敷に連日孤座してゐる私を見て、かゝりの女中は、御飯の給仕に來た時、
「旦那、お寂しくはないんですか、ひとりぽつんとして。」
といつて、氣の毒さうな眼をして私の顏を眺める。
「いや、ちつとも寂しくはない。」
といつて笑ふ。しかしその微笑には深い寂寞を湛へてゐたこととおもふけれども、その寂しみは私の好んで選んでゐる境地なのである。隣の部屋や廊下に跫音や話聲がせぬので私は伽藍のやうな大きな建て物をわがもゝの如く獨占していつまでも朝寢をすることが出來る。
九月の七八日頃、二三
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