日後に二百二十日を控えてゐるので何となく戸外はざわめいて、駒ヶ岳や双子山にかゝつてゐる水蒸氣は疾風の如く飛んでゐるけれど、日は黄色く照り、庭前の杉や楓は風に搖れながら涼しい蔭を地に印してゐる。私はめづらしく隙間を洩れてくる日光が條文をなして白いものに包まれた輕い夜着に射しかゝるのを知りながら、いつまでも快い夢を貪つてゐた。やがて懷しい湯の香のそこはかとなく立ち上るのを嗅ぎ潔く起き上つて、戸袋に近い雨戸を二三枚繰ると、私の長寢をするのを知つてゐて、遠く庭の彼方に見える折曲つた廊下の先の部屋にゐて蒲團の綿を入れてゐるお秋といふ三十ばかりの質樸な女中は、雨戸の音に私の起き出たのを知つて、ふとこちらを見る。そして私が楊枝を啣へて浴室に入つてゐる間にお秋さんはちやんと床を上げ、座敷を掃き清め、お茶を煎れて飮むばかりにしてある。私は靜かな心持ちになつて香ばしい番茶を啜つてゐると、そこへ彼女は味の好い燒きパンに甘《うま》いバタを付けたのを運んでくる。それが何ともいへず甘い。その時分であつた。ある朝のこと、まだ床の中に眼覺めたまゝでゐると、向うの双子山の麓のところで山を崩して地ならしをしてゐる、岩を摧
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