清め、夜遲くまで靜に讀書などしてこれから寢に就かうとする時は、自から安かな眠を誘ふ。……さうして私は湯に浴つて散歩の輕い疲れを醫するのである。
 あまり遠くへ散歩すると心地よく疲れて、書き物をする前に眠くなつてしまふことがあるので、筆を執つてゐる間はなるべく近い山の上を歩いてゐた。さういう時にはいつも辨天山へ上つていつた。山が雨のあとで靜に濕つてゐながら水蒸氣のないといふやうな日には殊に遠くの山の色が濃く美しくなつて見えた。明星ヶ岳、明神ヶ岳の上に尚ほ遠く高く見えてゐるのは足柄、愛甲諸郡につゞく北相模の山々である。ヘルメット形の大山も見える。好く晴れた日の下には其等の山々が遠近になつて濃淡を劃し、丁度品質の良いインキを溶かして塗つたやうである。横山大觀の雲去來でも寺崎廣業の白馬八題でもこの眞景の秋山雨後には到底企て及ばない。
 八月の末をも待たないで大抵の浴客は、家族を連れた多勢の客でも、東京や横濱の繁華な都會から來てゐては三十日もゐると山の眺め、温泉の香にも飽いてしまつて、まだ殘暑の劇しい八月の二十日頃にぞろ/\行李をしまつて降りていつてしまふ。いつた當座は、百に近い部屋がいづれも滿
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