越前屋の主人はまた戻って来て、
「おかあはん、えらいお待ち遠さんどした。さあ、もう済みましたよって、どうぞ帰っとくれやす。ほんまにえらい済まんことどした」主人は撫《な》でるように優しくいうと、母親は内の人たちに繰り返しくりかえし礼をいいつつ、やがて自分の家へ帰っていった。
五
そして母親が出て帰ったあとの入口を、主人は何度も気にして振り顧って見ながら、その時まだ庭に立ち働いていた女房が、
「もうお帰りやした」といったので、安心したように、私の方を見て、
「さあ兄さん、えらいお待たせして済みまへん。どうぞ、もっとずっと火鉢《ひばち》の傍にお寄りやす。夜が闌《ふ》けてきつう寒うおす」と、いって自分も火鉢の向うに座を占めながら、
「あのお母はんが傍についていると、喧《やかま》しゅうて話が出来しまへんよって、それでちょっとこちらへ来てもろうてました」主人は落ち着いていった。
その顔をよく見ると、主人の眼は泣いたように赤く潤《うる》んでいる。そして火鉢の正座《しょうざ》に坐っている老母と、横から手を翳《かざ》して凭《よ》っている私との顔を等分に見ながら、低い声に力を入れて、
「
前へ
次へ
全99ページ中41ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング