もなかったのですが、そんな人間はあっても大丈夫お園は自分の物になると私は思っていたのです」と、私はあくまでも信ずるようにいった。
すると彼女は、一層|嵩《かさ》にかかって冷笑しながら、
「あんたはんだけ自分でそう思いやしたかて、お園さんあんたはんのところへ行く気いちょっともあらしまへんなんだんどすもの。……その人はもうお死にやしたけど」といって、私に語る言葉の端々が妙に粗雑《ぞんざい》になってくるに反して、その死んだ人間のことをいう時にはひどく思いやりのある調子になりながら、火鉢の傍に坐っている若奴の顔を振《ふ》り顧《かえ》って、
「なあ、三野村さんとお園さんのことでは何遍も揉《も》めたなあ」と、女あるじはその時分のことを思いうかべて心から亡くなった人の身を悲しむかのように、私が傍にいることなどてんで忘れてしまった風で、しんみりとなり、
「三野村さん死なはったのはついこの間のように思うてたら、もう一昨年《おととし》になる。そうやなあ、一昨年の夏のもうしまいごろやった。可哀そうやったなあ、あんなにお園さんに惚れていても死んでしもうたらしようがない」
彼女はとうとう独り言をいい出した。
私は厭あな気持で黙ってそれを聴いていた。私にあてつけて故意にそんなことをいっているのかと思って気をつけていたが、彼女は真実三野村という男の死を哀れんでいるらしい。それならば情涙の涸渇《こかつ》したと思っていたこの薄雲太夫の後身にもやっぱり人並の思いやりはあるのだ。ただ私に対して同情を懐《いだ》かないばかりなのだ。それにしても私のこれほど血の涙の出るほどの胸の中がどうして彼女の胸に徹せぬのであろう。私は自分で自分のことを思ってみても昔の物語や浄瑠璃などにある人間ならばともかくも今の世におよそ私くらい真情《まごころ》を傾け尽して女を思いつめた男があるであろうか……なるほどその三野村という男のことは、もう三、四年も前にちょっと耳にせぬでもなかったが、たといいかなる深い男があっても、自分のこの真情《まごころ》に勝《まさ》る真情を女に捧《ささ》げている者は一人もありはせぬ。それに、自分の観察したところによると、女は自分の方から進んでいって決して男に深くなるような気質は持っていない。男に惚れるような女ならばかえってまた手を施すことも出来るのであるが、彼女に限ってそういう風は少しもなかった。どう
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