霜凍る宵
近松秋江

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)懊悩《おうのう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)毎日|欝《ふさ》ぎ込みながら

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》
−−

     一

 それからまた懊悩《おうのう》と失望とに毎日|欝《ふさ》ぎ込みながらなすこともなく日を過していたが、もし京都の地にもう女がいないとすれば、去年の春以来帰らぬ東京に一度帰ってみようかなどと思いながら、それもならず日を送るうち一月の中旬を過ぎたある日のことであった。陰気に曇った冷たい空《から》っ風《かぜ》の吹いている日の午前、内にばかり閉じ籠《こも》っていると気が欝いで堪えられないので、また外に出て何の当てもなく街を歩いていたが、やっぱり例の、女のもといたあたりに何となく心が惹《ひ》かれるのでそちらへ廻って行って、横町を歩いていると、向うの建仁寺《けんにんじ》の裏門のところを、母親が、こんな寒い朝早くからどこへ行ったのか深い襟巻《えりまき》をしてこちらへ歩いて来るのが、遠くから眼についた。私はそれを一目見ると、心にうなずいて、
「この機会をいつから待っていたか知れぬ」と、心の中に小躍《こおど》りしながら、そこの廻り角のところでどっちに行くであろうかと、ほかに人通りのない寂しい裏町なのでこちらの板塀《いたべい》の蔭《かげ》にそっと身を忍ばせて、待っていると、母親はそれとは気がつかぬらしく、その廻り角のところに来て、左に折れた。……そこを左に折れると、先々月の末に探しあてて行った例の路次裏の方へ行く道順である。私は、母親をやり過しておいて、七、八間も後《おく》れながら忍び忍び蹤《つ》いてゆくと、幾つもある廻り角を曲ってだんだんこの間の家の方へ近づいて行く。そして、とうとう、やっぱりその路次を入っていった。母親の姿が路次の曲り角を廻って見えなくなると、私は小走りに急いで後を追うてゆくと、母親は、やっぱり過日《いつか》の三軒並んだ中央《まんなか》の家の潜戸《くぐり》を開けて入ってゆくところであった。そして入ったあとをぱたりと閉めてしまった。
 私はこちらの路次の入口のところに佇
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