立《たちど》まって「ははあ」とばかりその様子を見ながら、心の中で、「今まで言っていたことは何もかも皆な※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》ばかりであった。やっぱり女もこの家にいるにちがいない」と独《ひと》りでうなずいて、
「もうこうして居処《いどころ》を突き留めた以上は大丈夫である。これから一と思いに踏み込んでやろうか」と思ったが、いやいや長い間の気の縺《もつ》れに今は精神が疲労しきっている。今すぐ、あの戸を叩《たた》いては、また仕損じることがあってはいけない。あの家《うち》の中に女が潜んでいると知ったら安心である。あえて急ぐには及ばぬ。ゆっくり心を落ち着けて、精神の疲労を回復した上で話に取りかかっても遅しとせぬ。そう思案をして、そのままそっと路次を引き返して表の通りの方へ出て来た。そして早く一応宿へ帰って、積日の辛苦を寛《くつろ》げようと思って電車の方に歩いてくると、去年の十二月の初めから、空漠《くうばく》とした女の居処を探すためにひょっとしたら懊悩の極、喪失して病死しはせぬだろうかと自分で思っていた、その居処を突き留めた悦《よろこ》びやら悲しみやらが一緒に込み上げて来て、熱い玉のような涙がはらはらと両頬《りょうほお》に流れ落ちた。そして神経がむやみに昂《たかぶ》って、胸の動悸《どうき》が早鐘を撞《つ》くようにひびく。寒い外気に触れて頬のまわりに乾きつく涙を、道を行く人に憚《はばか》るようにしてそっと拭《ふ》きながら、私は心の中で、
「やっぱり初めからあすこにいたのだ。それを、あの母親の言うことにうまうまと騙《だま》されて、ありもせぬ遠くの方ばかし探していた。今のところに変って来る前|先《せん》の時もあの路次にはもういないというから、そうかと思っていると、やっぱりあすこにいたのであった。今度もまたそうであった。一度ならず二度までも軽々と、あの母親のいうことを真実《ま》に受けて、この貴重な脳神経を、どんなに無駄《むだ》に浪費したか知れぬ」と、口惜《くや》しさと憤《いきどお》りとがかっとなるようであった。
 それから二、三日の間はつとめて心をほかのことに外《そ》らして気を慰め、神経を休めてから今度はよほどの強い決心をしてまたその路次に入って行った。そして入口の潜戸のところに立って引っ張ってみたが、やっぱり昼間でも中から錠を下ろしていると思われて開
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