しい。構《かま》しまへんがな。さあ、どなたはんも寒うおすさかい、遠慮せんと、ずっと火鉢の傍に寄って当ってとくれやす。……お母はんも、どうぞ私のところではもう何もいわんとおいとくれやす。お話はまた後でゆっくり聴きますよって」といって、私の方に向い、「兄さんも、どうぞそのおつもりで」と、顔に多く物を言わして、主人は再び隣りへ引き返していった。
主人がそういうのにつれて、ほかの者も狭い茶の間の一つところに母親や私を坐らした。見ると母親はさっきの激昂《げっこう》した様子は幾らか和らいで、越前屋の者に対しては笑顔《えがお》をしながら、それでもまだ愚痴っぽく「えらい遅うから兄さんもおいそがしいところ皆様にお世話かけてほんまに済まんことどす。……あんたはん、昨日こちらのお婆さんにお頼みやしたやおへんか。その返事もまだ聴かんうちから、よその家《うち》へ黙って入ってきやして、警察へ訴えて出たら、あんたはん罪人やおへんか。あの家は私の家とちがいます。旦那はんが今日は来ていやはらんからいいけど、もし旦那はんでも来といやしたら、どないおしやす」母親はまださっきの驚きと激怒の余熱《ほとぼり》の残っているように、くどくどと一つことを繰り返していっている。私は、もう母親を対手《あいて》に物をいいかけると、こちらまでが自分でも愛想の尽きるほど下劣な人間になり果てるような気がしてくるので、もう、どんな気に障《さわ》るようなことをいい出されても、じいっと腹に溜《た》めておろうとしても、「旦那はんが来ていたら……」などといわれたので、また、頭がかっとなるほど癪に障ったので、
「旦那が何です。私のほかにそんな者があろうはずがない。そんな男がもし来てでもいたら黙って引っ込んでいる私じゃない。そんな者があるなら、今晩それが来合わしていればよかったと思っているんだ。いつでも対手をしてやる」
私は堪《こら》えかねて、母親の方に向き直って言うと、生酔《なまえ》いに酔っぱらった越前屋の婆さんは、眼と眼との間に顔中の皺を寄せて、さもさも気色《きしょく》の悪そう、
「ああもう、うるさい。喧嘩《けんか》をするなら、私の家の中でせんと、どうぞ戸外《そと》に出てしてもらいまひょう。今伜があれほどいうて往《い》きよったのに、伜の顔を潰《つぶ》さんようにしてとくれやす」
そんな調子で私と母親とで睨《にら》み合っているところへ
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