はほかのことは思いまへん。これがわたしのところの伜であったら、わたしはどないな気がするやろと思うと、この胸が痛うなります」婆さんは、そういいながら、さもさも胸の痛みに触るように皺だらけの筋張った顔を一層|顰《しか》めて、そっと胸に手を当てる形をした。「あんたはんはそりゃ、御自分の好きな女子《おなご》のために勝手に自分の身を苦しめておいでやすのやろさかい、ちっとも私、構いまへんで。そやけど親御の身になったら、どないに思うか。わたしは、あんたはんの顔を見るのが辛い。もう、わたし、あんたはんがここの路次へ入って来るのを見るのが厭どす。見とうない、見せておくれやすな」
 婆さんは一人で、きかぬ気らしく頭振《かぶ》りを振りながら言い続けるのである。私は、揉手《もみで》をせんばかりに、はいはいして、
「あなたのおっしゃることは、一々御もっともです。けれども私にとってはまた一と口に申すことの出来ない深いわけがあるのですから……」
「ああいや、もう、そのわけがようない。それは聴かいでもわかってます。まあ、伜が何んとか埒《らち》のつく話をしていますやろ。どうぞ遠慮せんと待っといでやす」いくらか気を鎮《しず》めてそういっているかと思うと、婆さんは、しきりに酒気を吐きながら、肴の皿《さら》を箸で舐《な》めまわして、
「当年、これで七十一になります。年は取ってますが、伜で話がわからなんだら、わたしが出て話します。私がこうというたら後に寄りまへん」婆さんは、皺だらけの腕を捲《まく》ってみせて、「まだまだ若いものではしょうむない。毎日私か小言のいい続けどす」まるで何を言っているのか、拘攣《こうれん》したように変なところに力を籠めて空談《くだ》を巻いている。
 合壁一つ隔てた女の家《うち》では、いつまでも母親ががみがみがなる声ばかりが聞えていた。すると、やがて、越前屋の主人はどうしたのか、その母親を宥めすかしながら連れて戻って来た。そして優しい言葉で、
「お母さん、どうぞこちらへ。長うお手間は取らしまへんよって、ちょっとここでお待ちやしてとくれやす」といって、主人は自分で手まめに次の間から座蒲団などを取って来て、母親にすすめた。
 私は、母親の入って来たのを見ると、まるで敵《かたき》同士なので、ぷいと立ってそこを外《はず》そうとすると、主人は、
「ああ、兄さんもどうぞそこにいてとくれやしたらよろ
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