越前屋の主人はまた戻って来て、
「おかあはん、えらいお待ち遠さんどした。さあ、もう済みましたよって、どうぞ帰っとくれやす。ほんまにえらい済まんことどした」主人は撫《な》でるように優しくいうと、母親は内の人たちに繰り返しくりかえし礼をいいつつ、やがて自分の家へ帰っていった。
五
そして母親が出て帰ったあとの入口を、主人は何度も気にして振り顧って見ながら、その時まだ庭に立ち働いていた女房が、
「もうお帰りやした」といったので、安心したように、私の方を見て、
「さあ兄さん、えらいお待たせして済みまへん。どうぞ、もっとずっと火鉢《ひばち》の傍にお寄りやす。夜が闌《ふ》けてきつう寒うおす」と、いって自分も火鉢の向うに座を占めながら、
「あのお母はんが傍についていると、喧《やかま》しゅうて話が出来しまへんよって、それでちょっとこちらへ来てもろうてました」主人は落ち着いていった。
その顔をよく見ると、主人の眼は泣いたように赤く潤《うる》んでいる。そして火鉢の正座《しょうざ》に坐っている老母と、横から手を翳《かざ》して凭《よ》っている私との顔を等分に見ながら、低い声に力を入れて、
「お婆さん、わたし、今姉さんから話を聴いて呆《あき》れた。……」越前屋の主人は、あとの句も続かぬように湿っぽい調子になっている。
「なんでや?」
「なさぬ仲やの。……」と、声を秘《ひそ》めていって、「私、今はじめて聴かされた。そんなことがないか知らん思うとったんや。やっぱりそうやった」と主人は、ひどく人情につまされている。
婆さんは、それを聴くと、これはまた傷《いた》ましさに耐えられないように仰山に顔を顰《しか》めて、
「可哀そうに……」と、呆れた口を大きく開いて一句一句力をこめていって、うなずきながら、「そうか。それで皆読めた。……生《な》さぬ仲やと……」二度も三度も思い入ったように、それを繰り返して、もっともだというように、「……いえ、そうでもござりますやろ。……それでは話がまた一層ややこしゅうござります」
と、ようやく我に返った調子で、ひとり語《ごと》のようにいって沈吟している。
私はしばらく口を噤《つぐ》んで二人の話をじっと聴きながら最初は自分の耳を疑って訊き返してみた。主人は「ええ、真実の子やないのやそうにおす」と、私に答えておいて、「姉さんそれで今えろう泣いてた。私も一緒
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