る。
「ここではいえまへん」子供かなんぞのように同じことをいう。
「ここでは言えんて、ここで今言えなければ、いう折はないじゃないか。なぜかえるというの?」
 そういって、問いつめても、女はろくにわけをもいわずただ頑強《がんきょう》に口を噤《つぐ》んでいるばかりである。
 明るい電燈の光をあびている彼女の容姿《すがた》は水際立《みずぎわだ》って、見ていればいるほど綺麗である。そして、ふっと気がついてみると長い間見なかった間にそうして坐っている様子に何となく姉さんらしい落着きが出来て、どこといって口に言えない顔のあたりがさすがに幾らか年を取ったのがわかる。それはそうである。はじめて彼女を知ったのが五年前のちょうど今の時分で、爽《さわ》やかな初夏の風が柳の新緑を吹いている加茂川ぞいの二階座敷に、幾日もいくかも彼女を傍に置いて時の経つのを惜しんでいた。座敷から見渡すと向うの河原の芝生《しばふ》が真青に萌《も》え出《い》でて、そちらにも小褄《こづま》などをとった美しい女たちが笑い興じている声が、花やかに聞えてきたりした。彼女はそのころよく地味な黒縮緬のたけの詰った羽織を着て、はっきりした、すこし
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