うちに、女中が座敷に入ってきて、
「あの、お電話どっせ」という。
私は、跳《は》ね上がったような気がしながら、すぐさま立って電話のところへ下りていった。
「ああ、もしもし私」と声をかけると、向うでも、
「ああ、もしもし」と呼ぶ声がする。何という懐かしい、久しぶりに聴《き》く女の声であろう。振り顧《かえ》って考えると、それは去年の五月から八、九カ月の間も聴かなかった声である。手紙こそ月の中に十幾度となく往復しているが、去年の五月からと言えば顔の記憶も朧《おぼ》ろになるくらいである。
「ああ、わたし。電報を読んだの?」
「ええ、今読んだとこどす」
「よく、家にいたねえ。こちらは分っているだろう」
「よう分っています」
「それじゃすぐおいで」
「ええ、いても、よろしいけど、そこの人知っとる人多うおすさかい。私顔がさすといけまへんよって。あんたはん、今日そこからどこへおいでやすのどす」
「どこへ、とは? 泊るところ?」
「ええ、そうどす」
「それは、まだ定《き》めてない。あんたに一遍逢ってからでもいいと思って」
それから、ともかくそんなら東山の方のとある、小隠れた料理屋で一応逢ってからのこ
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