、諦《あきら》めて落ち着いているはずの、いろいろの思いが、汽車の進行につれて次第に募ってきて、はては悩ましいまでに不安に襲われてくる。
「女はいいあんばいに家にいるだろうか。此間《こないだ》中から大阪などへ行っていて留守ではなかろうか。大阪には一人深くあの女を思っている男があるのだ。……自分が女を初めて知った時の夏であった。その男に招《よ》ばれて、女が向うの座敷にいっている時、ちょうど上の木屋町の床で、四、五軒離れたところから、二人とも今湯を上がったばかりの浴衣姿《ゆかたすがた》で、その男の傍に女が来て坐っているところを遠見に見たことがあった。その時さながら身を熬《い》るような悩ましさを覚えたことがあった。それを思うても、何が苦しいといって恋の苦しみほど身に徹《こた》えるものはない。どうか家におってくれて、すぐ逢えればよいが。昨夜《ゆうべ》は、こうして、自分は汽車に一夜を明かして、はるばる東京から逢いに来たのである。女はどこへ、どんな人間の座敷に招ばれていったろうか。まだ朝は早い。朝の遅《おそ》い廓《くるわ》では今ごろはまだ眠っているであろう」
 そんなことが綿々として、後からあとから思い浮んで、汽車の座席にじっとしているに堪えられないくらいになった。私はそのあたりから頼信紙をとり出して、十一時までには必ず加茂川《かもがわ》べりのある家に行き着いているからという電報を打っておいた。そして京都駅に着いたのはまだ八時ごろであったが、どんよりとした暁靄《あさもや》は朝餉《あさげ》の炊煙と融け合い、停車場前の広場に立って、一年近くも見なかったあたりの山々を懐かしく眺めわたすと、東山は白い靄に包まれて清水《きよみず》の塔が音羽《おとわ》山の中腹に夢のようにぼんやりと浮んで見える。遠くの愛宕《あたご》から西山の一帯は朝暾《あさひ》を浴びて淡い藍色《あいいろ》に染めなされている。私は足の踏み度《ど》も軽く、そこからすぐさっき電報で知らしておいた加茂川べりの、とある料理屋を志していったが、そこも廓の中にある家のこととて、家の前に行った時、ようよう店の者が表の戸をあけかけているところであった。やがて階段を上がって、河原《かわら》を見晴らす二階の座敷に通り、食べる物などをあつらえているうちに、靄とも煙ともつかず、重く河原の面《おもて》を立ちこめていた茜色を帯びた白い川霧がだんだん中空をさして昇《のぼ》ってくる朝陽の光に消散して、四条の大橋を渡る往来の人の足音ばかり高く聞えていたのが、ちょうど影絵のような人の姿が次第に見え渡って来た。静かな日の影はうらうらと向う岸の人家に照り映《は》えて、その屋並の彼方《かなた》に見える東山はいつまでも静かな朝霧に籠《こ》められている。
 女中に、少ししたら女の声で電話がかかってくるかも知れぬからと頼んでおいて、私はひとり暖かい鍋《なべ》の物を食べながら、
「ああいって、委《くわ》しい電報を打っておいたけれど、ちょうどいいあんばいに女が家にいるか、いないか分らない、とり分け気ばたらきのない、悠暢《ゆうちょう》な女のことであるから……もっともその、しっとりして物静かなところがあの女の好いところであるが……たとい折よく昨夜の出先きから今朝《けさ》もう家に戻《もど》ってきていたにしても、あの電報を見て、早速てきぱきと、電話口に立っ[#「っ」は底本では「つ」と誤植、393−上−22]てゆくようなことはあるまい。ほんとに、人の心も知らないというのは彼奴《あいつ》のことだ」
と、そんなことを思って、不安の念に悩んでいると、ものの一時間ともたたないうちに、女中が座敷に入ってきて、
「あの、お電話どっせ」という。
 私は、跳《は》ね上がったような気がしながら、すぐさま立って電話のところへ下りていった。
「ああ、もしもし私」と声をかけると、向うでも、
「ああ、もしもし」と呼ぶ声がする。何という懐かしい、久しぶりに聴《き》く女の声であろう。振り顧《かえ》って考えると、それは去年の五月から八、九カ月の間も聴かなかった声である。手紙こそ月の中に十幾度となく往復しているが、去年の五月からと言えば顔の記憶も朧《おぼ》ろになるくらいである。
「ああ、わたし。電報を読んだの?」
「ええ、今読んだとこどす」
「よく、家にいたねえ。こちらは分っているだろう」
「よう分っています」
「それじゃすぐおいで」
「ええ、いても、よろしいけど、そこの人知っとる人多うおすさかい。私顔がさすといけまへんよって。あんたはん、今日そこからどこへおいでやすのどす」
「どこへ、とは? 泊るところ?」
「ええ、そうどす」
「それは、まだ定《き》めてない。あんたに一遍逢ってからでもいいと思って」
 それから、ともかくそんなら東山の方のとある、小隠れた料理屋で一応逢ってからのこ
前へ 次へ
全14ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング