黒髪
近松秋江

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)訊《たず》ねられても

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一層|懊悩《おうのう》せしめた。

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「言+虚」、第4水準2−88−74、409−下−4]
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     一

 ……その女は、私の、これまでに数知れぬほど見た女の中で一番気に入った女であった。どういうところが、そんなら、気に入ったかと訊《たず》ねられても一々口に出して説明することは、むずかしい。が、何よりも私の気に入ったのは、口のききよう、起居振舞《たちいふるま》いなどの、わざとらしくなく物静かなことであった。そして、生まれながら、どこから見ても京の女であった。もっとも京の女と言えば、どこか顔に締りのない感じのするのが多いものだが、その女は眉目《びもく》の辺が引き締っていて、口元などもしばしば彼地《あちら》の女にあるように弛《ゆる》んだ形をしておらず、色の白い、夏になると、それが一層白くなって、じっとり汗ばんだ皮膚の色が、ひとりでに淡紅色を呈して、いやに厚化粧を売り物にしているあちらの女に似ず、常に白粉《おしろい》などを用いぬのが自慢というほどでもなかったけれど……彼女は、そんな気どりなどは少しもなかったから……多くの女のする、手に暇さえあれば懐中から鏡を出して覗《のぞ》いたり、鬢《びん》をなおしたり、または紙白粉で顔を拭《ふ》くとかいったようなことは、ついぞなく、気持ちのさっぱりとした、何事にでも内輪な、どちらかというと色気の乏しいと言ってもいいくらいの女であった。
 そして、何よりもその女の優《すぐ》れたところは、姿の好いことであった。本当の背はそう高くないのに、ちょっと見て高く思われるのは身体《からだ》の形がいかにもすらりとして意気に出来ているからであった。手足の指の形まで、すんなりと伸びて、白いところにうす蒼《あお》い静脈の浮いているのまで、ひとしお女を優しいものにしてみせた。冬など蒼白いほど白い顔の色が一層さびしく沈んで、いつも銀杏《いちょう》がえしに結った房々とした鬢の毛が細おもての両頬《りょうほお》をおおうて、長く取った髱《たぼ》が鶴《つる》のような頸筋《くびすじ》から半襟《はんえり》に被《おお》いかぶさっていた。
 それは物のいい振りや起居と同じように柔和な表情の顔であったが、白い額に、いかつくないほどに濃い一の字を描いている眉毛《まゆげ》は、さながら白沙青松《はくさせいしょう》ともいいたいくらい、秀《ひい》でて見えた。けれど私に、いつまでも忘れられぬのはその眼であった。いくらか神経質な、二重瞼《ふたえまぶた》の、あくまでも黒い、賢そうな大きな眼であった。彼女は、決して、人に求めるところがあって、媚《こび》を呈したりして泣いたりなどするようなことはなかったけれど、どうかした話のまわり合わせから身の薄命を省みて、ふと涙ぐむ時など、じっと黙っていて、その大きな黒眸《くろめ》がちの眼が、ひとりでに一層大きく張りを持ってきて、赤く充血するとともに、さっと露が潤《うる》んでくるのであった。私は、彼女の、その時の眼だけでも命を投げ出して彼女を愛しても厭《いと》わないと思ったのである。そのころは年もまだ二十を三つか四つ出たくらいのもので若かったが、商売柄に似ぬ地味な好みから、頭髪《かみ》の飾りなども金あしの簪《かんざし》に小さい翡翠《ひすい》の玉をつけたものをよく挿《さ》していた。……

    二

それは、その女を知ってから、もう四年めの夏であった。夏中を、京都に近い畿内《きない》のある山の上に過した。高い山の上では老杉の頂から白い雲が、碧《あお》い空のおもてに湧《わ》いて、八月の半ばを過ぎるころには早くも朝夕は冷たい秋めいた風を身に覚えるようになり、それとともにそぞろに都会の生活が懐《なつ》かしくなってきた。夏の初め、山に行くまで、東京から京都に来ると、私は一カ月あまりその女の家にいたのであったが、また近いうちに山を下りてゆくということを言ってやると、女からは簡単な返事が来て、少しく事情があって、まだ自由な身でないので、内証の男を自分のところに置いとくことは方々に対して憚《はばか》りがある、夏の時は、一年半も会わなかったあとのことで、あれは格別に主人の計らいで公けにそうしたのであったが、たびたびというわけにはゆかぬ、そのうちこちらから何とか挨拶《あいさつ》をするまで、京都へは来ないで、すぐ東京の方へ帰っておってもらいたいというのであった。
 けれども私は、どうしてもそのまますぐ東京へ帰ってゆく気にはなれなかった
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