。そして九月の下旬に山を下りて紀伊から大阪の方の旅に二、三日を費やして、侘《わび》しい秋雨模様の、ある日の夕ぐれに、懐かしい京都の街《まち》に入ってきた。夏の初め、山の方に立ってゆく時は女の家から立っていったので、長い間情趣のない独《ひと》り住居《ずまい》に飽きていた私は、しばらくの間でも女の家にいた間のしっとりした生活の味が忘られず、出来ることならばすぐまた女のところへ行きたかったのだが、女は九月の初めに、それまでいたよその家の二階がりの所帯を畳んで母親はどこか上京《かみぎょう》辺の遠い親類にあずけ、自分の身が自由になるまで、少しでもよけいな銭《かね》のいるのを省きたいと言っていた。そのくらいのことならば、私の方でも心配するから、夏のおわりに、自分がまた山を下りてくるまでお母さんは、やっぱりここの家へ置いて、所帯もこのままにしているように言い置きもし、手紙でもたびたびそのことを繰り返しいってよこしたにもかかわらず、とうとう家は一時仕舞ってしまったと言って来ていたので、私は懐かしさに躍《おど》る胸を抱《いだ》きながら、その晩方京都に着くと、荷物はステーションに一時あずけにしておき、まず心当りの落着きのよさそうな旅館を志して上京《かみぎょう》の方をたずねて歩いたが、どうも思わしいところがなく、そうしているうちに秋の日は早くも暮れて、大分蒸すと思っていると、曇った灰色の空からは大粒の雨がぽつりぽつりと落ちてきた。
どこか親し味のある取扱いをして泊めてくれるようなところはないだろうか。女はなぜ、あの二階借りの住居を畳んでしまっただろう。自分は、五月から六月にかけて一カ月ばかり彼女のところにいる間に健康を増して、いくらか体《からだ》に肉が付いたくらいであった。しかし、もうあそこにいないと言えば、これから行ってみたところでしかたもない。母親はどこにいるのだろう。もっとも女に逢《あ》おうとおもえば、すぐにでも会えないことはないが、そうして逢うのは、つまらない。
そんなことを考えながら、ともかくも、これからしばらくゆっくり滞泊するところが求めたいと思ったけれど、そのほかに心あたりもなく、しかたなくまた奥まったところから、電車の通っている方へ出てくると、その電車はちょうど先《せん》に女のいたところの方にゆく電車であったので、今はそこにいてもいなくても、やっぱりそっちの方へ引き着けられてゆくような気がして、雨も降ってくるので、そのまま電車に飛び乗った。そして東山の方をずっと廻《まわ》って祇園町《ぎおんまち》の通りを少しゆくと、そこに彼女のいた家があるので、その近くの停留場で電車を降り、夏の前しばらくいて勝手を知っている、暗い路次の中に入っていって見たが、門は締っていて、階下《した》の家主の老女もいる気配はせず、上の、女のいた二階――自分もそこに一カ月ばかり女と一つの部屋にいた――は戸が締って火光《あかり》も洩《も》れていない。
「まあ、しかし、それは明日になってからでもよい」
そう思いながら、なるたけそこに近いところに宿を取りたい、しばらくの間でも好きな女と一緒にいた、懐かしい場所から遠く離れたくない気がして、そこから少し東山よりの方へ上っていったところにある、とある旅館にいって泊ることにした。それというのも、その旅館へはその女とも一緒によく泊りにいったことのある馴染《なじ》みふかい家であったからだ。そのあたりは、そんな種類の女の住んでいる祇園町に近いところで、三条の木屋町でなければ下河原《しもがわら》といわれて、祇園町の女の出場所になっている洒落《しゃ》れた土地であった。それは東山の麓《ふもと》に近い高みになっていて、閑雅な京都の中でも取り分けて閑寂なので人に悦《よろこ》ばれるところであった。
三
その前の年の冬に東京から久しぶりに女に逢いにいった時にも、やはりその家へ泊ったが、私はその時分のことを忘れることが出来ない。急に会って話したいことがあるから来てもらいたいという手紙を、女からよこしたので、一月の中ごろであった、私は夜の汽車で立っていった。スチームに暖められた汽車の中に仮睡の一夜を明かして、翌朝早く眼を覚《さ》ますと、窓の外は野も山も、薄化粧をしたような霜に凍《い》てて、それに麗《うら》らかな茜色《あかねいろ》の朝陽《あさひ》の光が漲《みなぎ》り渡っていた。雪の深い関ケ原を江州《ごうしゅう》の方に出抜けると、平濶《へいかつ》な野路の果てに遠く太陽をまともに受けて淡蒼《うすあお》い朝靄《あさもや》の中に霞《かす》んで見える比良《ひら》、比叡《ひえい》の山々が湖西に空に連らなっているのも、もう身は京都に近づいていることが思われて、ひとりでに胸は躍ってくるのであった。そして、幾ら遠く離れていても、東京にじっとしていれば
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