とにしよう。二時から三時までの間に両方でそこまで行って待ち合わすことにして互いに電話を切ろうとすると、女は念を押すように、
「もしもし、あんたはん違えんようにおしやす」
 いくらか嗄《しわが》れたような女の地声で繰り返していう。私はいきなり電話口へ自分の口をぴたりと押し付けたいほどの気になって、
「戯談《じょうだん》を。そちらこそ違えちゃいけないよ。私はねえ、京都の地にいる人と違うんだよ。ゆうべ夜汽車で、わざわざ百何十里の道をやって来たのだよ。気の長い人だから、時間が当てにならない。待たしたら怒るよ」そういうと、電話口で、ほほと笑う声だけして、電話は切れた。
 やがてもとの座敷に戻ってくると、女中はくたくた煮える鍋の傍に付いていたが、
「来やはりしまへんのどすか」と訊《き》く。
「ここへは来ないようだ」
 そういって、私はそこそこに御飯にしてしまった。南に向いた窓から河原の方に眼を放すと、短い冬の日はその時もう頭の真うえから少し西に傾いて、暖かい日の光は、そう思うて見るせいか四条の大橋の彼方に並ぶ向う岸の家つづきや八坂《やさか》の塔の見える東山あたりには、もう春めいた陽炎《かげろう》が立っているかのようである。私は約束の時間をちがえぬように急いでそこを出ていった。京都の冬の日の閑寂さといったらない。私はめずらしく、少しの酒にやや陶然となっていたので、そこから出るとすぐ居合わす俥《くるま》に乗って、川を東に渡り建仁寺の笹藪《ささやぶ》の蔭《かげ》の土塀《どべい》について裏門のところを曲って、だんだん上りの道を東山の方に挽《ひ》かれていった。そして静かな冬の日のさしかけている下河原の街を歩いて、数年前一度知っている心あたりの旅館を訪《と》うと、快く通してくれた。それを縁故にして、その後もたびたびいって泊ったが、そこの座敷は簡素な造りであったが、主人が風雅の心得のある人間で、金目を見せずに気持ちよく座敷を飾ってあった。私は厚い八端《はったん》の座蒲団《ざぶとん》の上にともかくも坐って、女中の静かに汲《く》んで出した暖かい茶を呑《の》んでから、さっき女と電話で約束した会合の場所が、そこからすぐ近いところなので、時計を出して見い見い遅刻せぬようにと、ちょっとそこまでといい置いて、出て行った。そこらは、もう高台寺《こうだいじ》の境内に近いところで、蓊欝《おううつ》とした松の木山がすぐ眉に迫り、節のすなおな、真青な竹林が家のうしろに続いていたりした。私は、山の方に上がってゆく静かな細い通りを歩いて、約束の、真葛《まくず》ヶ原《はら》のある茶亭の入口のところに来てしばらく待っていた。そこは加茂川ぞいの低地から大分高みになっているので、振り顧って向うの方を見ると、麗らかに照る午《ひる》さがりの冬の日を真正面に浴びた愛宕の山が金色に輝く大気の彼方にさながら藍霞のように遠く西の空に渡っている。そして、あまり遠くへゆかぬようにしてそこらを少しの間ぶらぶらしているところへ、こちらに立って、見ていると細い坂道を往来の人に交ってやって来るのは、まぎれもない彼女である。それは、去年の五月以来八、九カ月見なかった容姿《すがた》である。だんだん近くなってくると、向うでもこちらを認めたと思われて、にっこりしている。銀杏返《いちょうがえ》しに結った頭ッ《かみ》を撫《な》でもせず、黒い衿巻《えりまき》をして、お召の半コートを着ている下の方にお召の前掛けなどをしているのが見えて、不断のままである。
「私をよく覚えていたねえ」と、笑うと、
「そら覚えていますさ」
「今そこで宿をきめたのだ。知っているだろう、すぐそこのあの家。あそこが早く気がつくと、すぐあそこへ来てもらうんだった。まあ、いい、入ろう」そういって、私は先に立って、そこの茶亭に入った。
 そして、庭の外はすぐ東山裾の深い竹林につづいている奥まった離室《はなれ》に通って、二、三の食べる物などを命じてしばらく話していた。
「こんな物が出来てえ」と甘えるような鼻声になって、しきりに顔の小さい面皰《にきび》のようなものを気にしている。
「私、ちょっと肥《ふと》りましたやろ」
「うむ、ええ血色だ。達者で何より結構だ。そして急に話したいことがあるから来てくれと言ったのは何のことだい?」
 そういって訊いても女は黙って答えない。重ねて訊くと、
「それはまた後で話します」と、いう。
「じゃ、これからそろそろ宿の方にゆこうか」というと、
「私、今すぐは行けまへんの。あんたはん先き帰ってとくれやす。夜になってから行きます」
「なぜ今いけないの。一緒にゆこうじゃないか」そういって勧めたけれど、今はちょっとよそのお座敷をはずして逢いに来たのですぐというわけにはいかぬというので、堅く後を約束してそこの家を伴《つ》れ立って一緒に出て戻った
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