。そして旅館の入口の前で別れながら、
「一緒に御飯を食べるように、都合してなるたけ早くおいで」
「ええ、そうします」といって、女はかえって去《い》った。
冬の夜は静かに更《ふ》けて、厳《きび》しい寒さが深々と加わるのを、室内に取り付けた瓦斯煖炉《ガスだんろ》の火に温《あたた》まりながら私は落ち着いた気分になって読みさしの新聞などを見ながら女の来るのを今か今かと待ちかねていた。女はなかなかやって来なかったので、とうとう空腹に堪えかねて独りで、物足りない夕食を済ましてしまった。そうしていても女はまだまだやって来ないので、徴醺《ほろよい》気分でだいぶ焦《じ》れ焦れしてきて、気長く待つ気で読んでいた雑誌をもとうとうそこに投げ出して、煖炉の前に褞袍《どてら》にくるまって肱枕《ひじまくら》で横になり、来ても仮睡した真似《まね》をして黙っていてやろう、と思っていると、十時も過ぎて、やがて十一時ちかくになって、遠くの廊下に静かな足音がして、今度は、どうやら女中ばかりの歩くのとは違うと思っていると、襖《ふすま》の外で何かいう気配がして、女中が外から膝《ひざ》をついて襖をそうっと開《あ》けると、そこに彼女のすらりとした姿が立っていた。そして、さっきとちがい頭髪《かみ》の容《かたち》もととのえ薄く化粧をしているのでずっと引き立って見えた。こうしてみると、たしかに佳《い》い女である。この女に自分が全力を挙《あ》げて惚《ほ》れているのは無理はない。こんな女を自分の物にする悦びは一国を所有するよりもっと強烈なる本能的の悦びである。
女は悠揚《ゆったり》とした態度で入ってきながら、
「えらい遅《おそ》なりました」と、一と口言ったきり、すこしもつべこべしたことはいわない。夕飯は済んだのかと訊くと、食べて来たから、何も欲《ほ》しくないという。翌日は一日、寒さを恐れて外にも出ずにそこで遊んでいたが、彼女は机に凭《もた》れて、遠くの叔母《おば》にやるのだといってしきりに巻紙に筆を走らせていた。桜の花びらを、あるかなきかに、ところどころに織り出した黒縮緬《くろちりめん》の羽織に、地味な藍色がかった薄いだんだら格子《ごうし》のお召の着物をきて、ところどころ紅味《あかみ》の入った羽二重しぼりの襦袢《じゅばん》の袖口《そでぐち》の絡《から》まる白い繊細《かぼそ》い腕を差し伸べて左の手に巻紙を持ち、右の手に筆を持っているのが、賤《いや》しい稼業《かぎょう》の女でありながら、何となく古風の女めいて、どうしても京都でなければ見られない女であると思いながら、私は寝床の上に楽枕しながら、女の容姿に横からつくづく見蕩《みと》れていた。……
その時は、その晩遅い汽車で、女に京都駅まで見送られて東京に戻って来た。それから一年ばかり、手紙だけは始終贈答していながら、顔を見なかったのである。
四
その女が、自分のほかにどんな人間に逢っているか、自分に対して、はたしてどれだけの真実な感情を抱いているか。近いところにいてさえ売笑を稼業としている者の内状は知るよしもないのに、まして遠く離れて、しかも一年以上二年近くも相見ないで、ただ手紙の交換ばかりしていて、対手《あいて》の心の真相は知られるはずもないのであるが、そんなことを深く疑えば、いくら疑ったって際限がなかった。時とすると堪えがたい想像を心に描いて、ほとんどいても起《た》ってもいられないような愛着と、嫉妬《しっと》と、不安のために胸を焦がすようなこともあったが、私は、強《し》いてみずから欺くようにして、そういう不快な想像を掻《か》き消し、不安な思いを胸から追い払うように努めていたのであった。
そして、三、四年につづいている長い間のこちらの配慮の結果、あたりまえならば、もうとうに女の身の解決は着いているはずであるのに、それがいつまで経《た》っても要領を得ないので、後には自分の方から随分詰問した書面を送ったこともあったが、女はそれについては、少しも、こっちを満足せしめるようなはっきりした返事をよこさなかった。とうとうまた、ようやく一年半ぶりに女に逢うべく京都の地に来ていながら、私はただ、あたりまえの習慣に従って女に逢うのが物足りなくなって、この前の時のように手紙や電報で合図をしても、それに対して一向満足な手紙をよこさないのであった。ただ普通の習慣に従って逢おうとすればすぐにでもあえるのであるが、女の方から進んで何とか言ってくるまではしばらく放棄《ほ》っておこう。これを仮りに人のこととして平静に考えてみても、向うから進んで何とか言わなければならぬ義理である。百歩も千歩も譲って考えても、いくら卑しい稼業の女であってもそんなわけのものではない。
そう思い諦めて、しばらくの間、気を変えるために、私は晩春の大和路《やまとじ》の方に
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