蔭から声をかけて、
「この子がそういうていました。おかあはん、私は口が下手《へた》で、よういわんさかい、あんたから、おいでやしたら、ようお礼いうてえやちゅうて。……此家《ここ》のことも、もっと早うにお返事すりゃ好うおしたのどすけど、この子が二月に一と月ほど、ちょっと心配するほど患《わずら》いましたもんどすさかい、よう返事も出しまへなんだのどす」
 私はそちらへ頭を振り向けながら、
「いや、もう、こうして来て見て、思っていたほどでなかったので安心しました」と、そちらへ声をかけた。
 ちょうど気候の加減が好いので、いつまで起きていても夜の遅くなっているのが分らないくらいである。
 やがてまた母親が、
「もう二時をとうに過ぎたえ。……あんたはんもお疲れやしたろ。お休みやす」
といったので、ようやく気がついて寝支度《ねじたく》をした。

     六

 そこがあまりおり心が好かったので、何年の間という長い独棲生活《ひとりぐらし》に飽いていた私は、そうして母子の者の、出来ぬ中からの行きとどいた待遇《もてなし》ぶりに、ついに覚えぬ、温《あたた》かい家庭的情味に浸りながら一カ月余をうかうかと過してしまった。そのために、まだ春の寒いころから傷《そこ》ねていた健康をも、追い追い暖気に向う気候の加減も手伝って、すっかり回復したのであった。
 女は用事を付けてその月一ぱいだけは一週間ばかり家にいたまま休んでいた。どこかへ一緒に歩いてみようかといって誘っても、
「ほんとに商売を廃《や》めてしもうてからにします」とばかりで、夜遅く近処の風呂にゆくほかは一日静かにして家にとじ籠《こ》もっていた。そして稚《おさな》い女の子の気まぐれのように、ふと思い出して風炉の釜に湯を沸かして、薄茶を立てて飲ましたりした。そして、そこにある塗り物の菓子箱を指さして、
「わたしが二月に病気で寝ている時これを持って、見舞いに来てくれた人が、その時私を廃めさすいうてくれたんどっせ」
「ヘえ、そんな深い人があるの」
「深いことも何もおへんけど」
「そして引かすといった時あんたは何と言ったの」
「私、すこし都合がおすさかいいうて断りました」
「その人はどんな人? 何をする人」
「やっぱり商人の人どす」
「まだ若い人?」
「若いことおへん。もうおかみさんがあって、子供の三人もある人どす」
「そんな人しかたがないじゃないか
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