た、何をいっているのか、私には少しもわからない。かえってから後にいうとは。そんなら今ここでいったらいいじゃないか」
「ほんなら、私帰ってすぐあとで使いに手紙を持ってこさします」
「せっかくここへ来て、すぐまた帰るというのが私にはわからないなあ。あんた、もう私に逢わないつもりなの?」
「ちがいます。私またあとで逢います」
「なあんのことをいっているのだか、私には少しも合点《がてん》がゆかぬ。しかしまあいい。それじゃお前の好きなようにおしなさい。どんなことをいってくるかあんたの手紙を持ってくるのを待っているから。必ず使いをよこすねえ」
「ええ、これから二時間ほどしてから俥屋《くるまや》をおこします。ほんなら待ってとくれやす」
 そういいおいて、彼女は静かに立ち上って廊下の外に消えるように帰ってしまった。私はまた変な不安の念《おも》いを抱《いだ》きながら、あまり執拗《しつよう》に留めるのも大人げないことだと思って女のいうがままにさしておいた。開放した濡縁《ぬれえん》のそとの、高い土塀《どべい》で取り囲んだ小庭には、こんもり茂った植込みのまわりに、しっとりとした夜霧が立ち白んだようになって、いくらか薄暖かい空気の中へ爽やかな夜気が絶えず山の方から流れ込んでくる。私は食べ物の香の残っている餉台のところから身体をずらして、そちらの小庭に近い端の方へ行ってまたごろりと横になり、わけもなく懐かしい植物性の香気の立ち薫《かお》っているような夜気の流通を呼吸しながら、女の約束していった二時間のちのたよりを、それがどんなものであるかという不安でたまらないうちにもいいがたい楽しみに充《み》ちた期待をもって待つ心でいた。
 あたりは静かなようでも、さすがに一歩出れば、すぐ繁華な夜の賑《にぎ》わいの街《まち》に近いところのこととて、折々人の通り過ぎるどよみが遠音にひびいてくる。しかし、そのためにひとしお静けさを増すかのように思われる。あんまり快《い》い気持ちなので、私は肱《ひじ》を枕にしたまま、足の先を褞袍《どてら》の裾《すそ》にくるんで、うつらうつらとなっていた。そこへ女中が入ってきて、
「お風召すといけまへん。もうお床おのべ致しまひょうか。……あの、どこかちょっとおいきやしたんどすか」
「ああ、お今さんか。あんまり好い心地《ここち》なのでうとうとしていた。……いや、ちょっと、もう少し待って
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