ゐる山麓の村里を過ぎ插秧《さふあう》のをはつたばかりの水田や青蘆の生ひ茂つた汀つたひの街道を走つていつた。俥の上から湖東の方を顧ると、此の春遊びにいつた三上山が平濶な野洲郡の碧落と緑樹と點綴せる上にくつきりと薄墨色に染まつて見えてゐる。衣川といふ昔は一萬石の城下で、北國街道の宿であつた村を越して村はづれを流れてゐる衣川といふ小川の土手を上つて橋を向ふに渡ると、堅田の人家は右手の湖の方に突出でた田甫《たんぼ》の彼方に見えた。大津を十時に發する船は十一時に堅田を發することになつてゐる。時計の針はもう十時五十分を示して、船は田甫の向ふの青蘆のうへに黒い煙突だけを見せて吾々の俥を追掛けるやうに水の上を滑つて進んでゐる。脚達者な車夫は、
「これに遲れたら、もうお金もらひまへん」と笑つて語りながら急速力で驅け出した。
「どうどす。浮御堂へ一寸寄つてお見やすか」と車夫は、そちらへゆく道と棧橋の方へとの岐小路の處で聲をかけたが、私は、京にゐる間から今まで幾度か行きそびれてゐるのに懲りて、直ぐ棧橋の方へ走らした。軒の低い呉服屋や荒物屋などの竝んだ商家の通りを過ぎて俥が棧橋の手前の切符賣場にやつと轅棒《か
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