ず、葷酒《くんしゆ》を知らず、春風秋雨八十年の生涯を此の江湖の水によつて遠く俗界と絶ち、たゞ一と筋に佛に近よることを勤めて老の到るのを忘れてゐられるのである。それは昨日ほかの者から噂にきいていた。
老僧は通ひ船に乘り込んだはずみに私の方に近づいて來られたので、私は會釋をしつゝ、
「いろ/\お世話になりました……」
とお禮を述べると、老僧もそれと同時に、女の樣な柔和な笑顏をこちらに向けて、
「ゆきとゞきませんで、さぞ御不自由でお困りでございましたでせう」
と、聲も女のやうに優しい寂のある聲である。觀音さまには男相と女相とあり、或ひは男とも女とも區別のつかぬ御顏をして居られるのであるが、老僧こそ風光明媚なるこの竹生島觀世音の化身ではあるまいかと思はれて、顏容といひ音聲といひ、體まで小さく痩枯れて女と見まがふ柔和な方である。中古の黒絽の道服に絹紬の着物の質素な裝をした老僧は杖をついて舟の中に向ふをむいて立つてゐられる。
やがて汽船の傍に漕ぎ寄せて老僧は雛僧《こぞう》さんに扶けられて船に乘り移り、私もそのあとから續いて乘つた。雛僧さんが手荷物を老僧に渡して歸つてゆくと、一等室には老僧と
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