《せた》、膳所《ぜぜ》、大津などの湖尻から三里ばかり北に入つてゆく間は東西の幅も一里位のもので、それが野洲河口の長沙と堅田の岬端とで狹められてゐる邊は約半里くらゐのものかも知れぬ。それだけの間が恰も琵琶の轉軫《てんじん》の部分である。所謂近江八景は「比良《ひら》の暮雪」のほかは、多く湖南に屬する地點を撰んで名附けてあるが、今日の如く西洋文明の利器に涜《けが》されない時代には、その邊の風景も落着いてゐて一層雅趣が豐であつたかも知れぬ。その頃は唐崎《からさき》の松も千年の緑を誇つてゐたのであらう。膳所《ぜぜ》の城もその瓦甍影を水に※[#「酉+焦」、第4水準2−90−41]《ひた》してゐたであらう。粟津《あはづ》が原の習々たる青嵐も今日のごとく電車の響のためにその自然の諧音を亂されなかつたであらう。芭蕉は殊のほかこの湖國の風景を愛《め》でて、石山の奧には長く住んでゐたのであるが、翁の詠んだ句には湖水の深い處の句は、自分の寡聞のせゐか餘り知らない。多く湖南に屬する景物を吟じてゐる。
[#天から2字下げ]唐崎の松は花よりおぼろにて
と大津にゐて詠んでゐる句を見ると、二百年前にはそれが實景であつ
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