(西岸)から突き出てゐる所に人家が群つてゐて、空氣の澄明な日などには瓦甍《ぐわばう》粉壁が夕陽を浴びて白く反射してゐる。やがて日が比良《ひら》比叡の峰つゞきに沒して遠くの山下が野も里も一樣に薄暮の底に隱れてしまふと、その人家の群つてゐる處にぽつりぽつり明星のごとき燈火が山を蔽うた夜霧を透して瞬きはじめる。その賑やかな人家の群りが先頃から、京都の繁華を離れて此の無人聲の山の上の僧房生活をしてゐる者の胸には何となく懷しくて堪らない。人里の夜の燈火のむれがどんなに此の山の上からは心を惹くか知れない。そこは八景の一つに數へられてゐる堅田《かただ》の町であつた。堅田の町、秋ならば雁の降りる處。また浮御堂《うきみだう》の立つてゐるので知られてゐる名勝區である。叡山東麓の坂本からこの延暦寺の根本中堂《こんぽんちゆうだう》のあるところまで急阪二十五町の登路。坂本から堅田までは汀《なぎさ》づたひに二里弱離れてゐるから、私の凭つてゐる窓から燈火の見えてゐる處まで直徑どのくらゐあるか、私は兎に角、早く一度そちらに降りていつてみたくなつた。
琵琶湖はまた鳰《にほ》の海ともいひ、その名の如く琵琶に似て、瀬田
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